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2018年10月28日

なぜ信仰が必要かⅡ  

 

 『だれでもキリストにあるならば(キリストを信じたら)、その人は新しく造られた者(生まれ変わった者)である。古いもの(過去)は過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』。

(コリント後書517節)

 

 ウエストミンスター小教理問答に、「なぜ信仰が必要か」という設問があり、その答えに「人間はあまりにも弱いので、何かに頼らなければ生きてゆけないから」とあります。そして、もうひとつの答えは、「人間は(新しく生まれ)変わらなければ、このままでは神の恵みを受けることはできない」とあります。

 

 なぜ、生まれ変わらなければならないのでしょうか。それは、神が想像されたときの姿を失ってしまっているからです。創世記127節に、「神の像(かたち)のごとく想像された」とありますが、神が想像された人間は、神に近い潔い者として想像されたのです。ところが、エデンの園でサタンに騙されて神のいましめに背いたために、罪が入り、エデンの園を追放されたのです。その結果、ローマ書323節に「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなり」、その姿は「鳥や獣や這うものの像に似せた(鳥や獣や這うものと、少しも変わらない存在になってしまった)」(ローマ書123節)のです。これでは神の恵みを受けてしあわせになれません。生まれ変わらなければなりません。

 

 そのために、神は御子イエス・キリストをこの世に遣わして、十字架に掛かって、わたしたちの罪の身代わりとなって死に、わたしたちの罪の贖いとなってくださったのです。そして前掲のみ言葉に、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」とあるように、イエス・キリストを信じたら、神はわたしたちの罪を赦して、新しく生まれ変わらせてくださるのです。ヨハネ福音書3章に「だれでも新しく生れなければ」、神の国を見ることはできない」(3節)。また「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(5節)とあります。つまり、罪人の姿では神の国を見ることも、入ることもできません。なぜなら、神の国は神聖なところで、神を信じて潔くなければ入ることが出来ないのです。

 

 よく「天国に行った」と簡単に言う人がありますが、天国はそんな簡単なところではありません。神を信じて救われ、洗礼を受けて聖徒とならなければ入ることができない神聖なところです。

 

 また「水と霊とから生れなければ、神の国にはいることができない」とありますが、この水とは洗礼のことです。そして霊とは聖霊の力によって、という意味です。だれでも「天国、天国」と言っておれば入れるところではなく、水によって罪を洗い潔め、聖霊の力に満たされて、はじめて入ることが許されるところです。

 

 水と霊によって生まれ変わった人は、もう過去の罪は赦されましたから、キリストの審判のとき、その前に立たされても何も恐れることはありません。むしろ「善かつ忠なる者よ、よくやった」と報いを受けるときなのです。

 

 ある日、女性が尋ねてきました。クリスマスの燭火礼拝に友達に誘われて来た人でした。「この前は、取税人ザーカイがイエスに出会って生まれ変わった、とお話しましたが、わたしのような者でも生まれ変わることができますか」と言いましたので、話を聞きますと、こんな話をしました。住宅の人たちが次々と郊外に家を買って出て行きますので、自分も家を欲しくて主人と一所懸命に働き、ようやく住宅購入の頭金になる、500万円ができたので嬉しくなり友だちに話しました。すると、その友だちが、飲み屋を経営していましたが、すこし模様替えをしたいので、十一の利子を払うから貸してくれないか(十一の利子とは、十日で一割の高利の利息のこと)と言われたので貸したところが、十日目に利息を払ってくれたので、これは儲かると、友だちからお金を借りて、その友人に貸したそうです。ところが利息を払ってくれのは、はじめの一度だけで、いくら催促しても払ってくれないのです。取り立てに行くと、「借金取りは裏から回ってきてくれ」と冷たくあしらわれる始末で、一向に利息を返済してくれないのです。自分の分はまだいいのですが、友だちから借りた金だけは払ってやらなければならないので、困ってしまって主人に話すと、主人は毎月の給料から利息分だけをだしてくれて、返すような状態だったそうです。そして返してくれない友人を恨んでいました。

 

 こんな毎日を送っていると、守銭奴のように顔つきまで険しくなり、我ながら嫌になってしまい、「先生、わたしもザーカイのように生まれ変わらせてください」と言ってきたのです。そこで、「イエス・キリストを信じたら、神様はあなたを生まれ変わらせてくださいます」と話したら、その人は素直に信じて洗礼を受けて、全く新しく変えられ、人相までも柔和に変えられました。(2018.10.28