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2019年4月28日



トマスの信仰について

 

八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネ福音書2026節)

 

 

 先週は復活祭の礼拝を守りましたが、金曜日に十字架にお掛かりになったイエスは、その日の日没までに墓に葬られました。そして日曜日の朝、復活されたのです。そのイエスがエルサレムの弟子たちが集まっているところに現れたので、「弟子たち主を見て喜んだ」とあります。またエマオ途上にいた二人の弟子たちが、エルサレムで起った出来事を話しながら道行きしているところに現れました。宿屋で食事をしたときに、その人がパンを裂くその仕種を見て、木曜日の最後の晩餐のイエスのことを思い出し、イエスが復活されたことを知り、「お互いの心が内に燃えたではないか」と言って、エルサレムに取って返しました。そして弟子たちは興奮の坩堝(るつぼ)となりました。

 

 そんなところに、イエスの十二弟子のひとりのトマスが入ってきて、仲間たちの興奮している姿に接して、自分だけが蚊帳の外におかれたような気になり言いました。「おまえたちは、イエスの幻影を見たのだ。それが本当にイエスであるなら、その人の手にクギで打たれた傷があるに違いない。また脇腹に槍で突かれた傷があるに違いない。それを見ない限り信じない」と言いました。

 

 それから、八日目にイエスはトマスの前に現れて、ご自身の両手の傷と、脇腹の傷をお見せになったのです。それを見たトマスは「わが主よ、わが神よ」と叫んで、復活されたイエスを認めたのです。そのときイエスは、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである」と、やさしく答えたのです。これはトマスに対するイエスの愛でした。

 

 トマスのことを懐疑的という人がいますが、こんな人が比較的に多いのです。なかには単純に信じる人を「知的ではない」「単純だ」と軽蔑しますが、詩篇531節に「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う」とあります。この「愚かな者」とは馬鹿者という意味ではなく、罪人という意味です。つまり罪人だから神を信じることが出来ないのです。罪が深いほど素直に信じられなくなるのです。よく「神がほんとうにいるのなら、ここに出してみろ。そしたら信じてやる」と、傲慢なことをいう人がありますが、そんな人は、たとえそこに神がおられても、罪人には見えないのです。なぜなら神は聖なる御方ですから。

 

 信仰は納得や理屈ではありません。聖書の言葉をありのままに、素直に信ずるところに救いがあるのです。昔、「新約聖書の非神話化」を提唱した人がありました。これは、聖書のなかには奇蹟など神話化したものがある。例えばイエスが水の上を歩かれたとか、五つのパンで五千人を養われたとか、これは人間の理性では理解できないから取り除け、そうすれば信じられるようになるといった主張です。ところが、この学説はいつの間にか廃れてしましました。なぜなら、そんなことをすれば御言葉に力がなくなってしまったからです。ヤコブ書121節には「御言をすなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」とあります。み言葉は神の言葉です。神の言葉を素直に信じられる人はしあわせになるのです。

 

 旧約聖書のダビデ王の時代にこんな話があります。ダビデがイスラエルの王となって間もなく、これまで自分を助けてくれたヨナタンのことを思い出しました。そこでヨナタンの恩に報いたいと思いましたが、彼はすでに戦死してしまっていたので、その遺児を捜しました。するとひとりメピボセデという青年が、ロ・デバルという僻地に隠れ住んでいるのが見つかりました。そこでダビデは使いの者を遣わして、ヨナタンの恩義に報いたいからエルサレムに来るように誘いましたら、彼は素直にダビデ王の申し出を受けました。そこで彼は王宮で「王の子のひとりのようにダビデの食卓で食事をした」とあります。(サムエル記下9章)これは王の申し出を素直に受けたからです。

 

 次の十章には、アンモンのナハシの子ハヌンはダビデの心を素直に信じられないで、その使者を辱めて帰しました。そのためダビデの復讐を恐れて戦いの備えをしたというのです。(2019.4.28