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2020年06月07日

主に近づく人

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに
近づいて下さるであろう。
(ヤコブ書4章8節)

私達の読んでいます「口語訳聖書」の「旧約聖書」は1955年に、「新約聖書」は1954年に出版されました。翻訳されてからもう65年経ちます。その間3回改訂され、2002年より前に出版された「口語訳聖書」では、本日の聖書箇所の「重い皮膚病」が「らい病」のままになっています。

 今日の福音書の並行記事の「マタイ福音書8章」には、主イエス様の後に、「おびただし群衆がついてきた」(8章1節)とあります。「マルコ福音書」でも「みんなが、あなたを捜しています」(1章37節)とありますので、主イエス様は多くの群衆に囲まれておられました。そこに一人の「重い皮膚病にかかった人」が、多くの人々に囲まれた主イエス様に近づきました。

私達の主イエス様は多くの人々のために心を砕いておられますが、「一人の魂」の上に目を注いでくださるお方です。主イエス様は、「あなた一人」に目を留めて、「あなた一人」のために御力を現してくださるのです。この時も、主イエス様は大勢の群衆の中にいて、人々が避ける「一人の重い皮膚病にかかった人」に「御心」を留められたのでした。「イザヤ書」には「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの。 あなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」(43章4節)とあり、別の翻訳聖書では「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(新改訳聖書)とあります。私達が信じて今礼拝している「主なる神様」は、「あなた一人に」目を留めて、「あなた一人」のために御力を現してくださるのです。

 この「重い皮膚病にかかった人」は、単に皮膚病を患っているだけではありませんでした。この人は、宗教的な汚れと、その病気の伝染性のために ?「生ける屍」として社会から完全に追放され、「生きていても死んだも同然」と見なされる悲惨な境遇、? 汚れた者として「宿営の外に」住むように強いられ、 ?「独りで住む」(新共同訳)ということで同病者との結婚も許されなかったはずです。

 往年の名画『ベン・ハー』で、主人公のユダヤ人「ベン・ハー」の母親と妹が、不潔で過酷な獄中生活で「重い皮膚病」を発症して、村外れの洞窟に隔離され悲惨な生活していたシーンは忘れることが出来ません。この「重い皮膚病を患っている人」も『ベン・ハー』の映画に描かれた「人里離れた所」で生きて行かなければなりませんでした。更に、一般の人に近づく時は、「レビ記」に記してありますように、衣服を裂いて、髪をほどき、口ひげを覆って、見るからに 「特殊な人だ」と分かる格好をしなければなりませんでした(レビ記13章45節46節)。人々が誤って近づかないため「わたしは汚れたものです。汚れたものです。」と叫んで歩かなければなりませんでした。

この「重い皮膚病にかかった人」は、大勢の群衆に囲まれた主イエス様に近づくために人垣をかき分けて、主の御前に出て「ひざまずいた」のでした。この事は、レビ記の「戒め」を破ったことになり、「とんでもないこと」です。しかし、彼は主イエス様に近づきたかったのでした。この「大胆な信仰」は信仰者にとって大切。謙遜で控えめで、遠くから主イエス様の様子を伺っても、何も起こりません。大胆に近づくことをこそ、主は喜ばれます。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブ書4章8節)とありますように、恥も外聞も捨て、ひたすら主イエス様に近づく人を、主は喜ばれて、慰め、癒し、祝福してくださるのです。現代の私たちも、「ヤコブ書4章8節」の「信仰の世界の原則」に堅く立ちましょう。

 「戒め」さえ破って、主に近づいてその前に出た「重い皮膚病にかかった人」は、「ひざまずき」ました。イエス様を「救い主キリスト」として礼拝している姿です。「イエス様こそ、救い主であり、私の重い皮膚病を癒し、清めてくださる。」と信じ切っていたからです。同じく「マルコ福音書10章」に記された「盲人のバルテマイ」は、多くの人から叱られ、たしなめられ、黙らされても、それにめげず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐(あわ)れんでください」(10章47、48節)と叫び続けました。主イエス様は、その「バルテマイ」に対して、「行け、あなたの信仰が、あなたを救った。」(マルコ福音書10章51節)と宣言されると、盲目の目は癒され、彼は主イエス様に従いました。

この「重い皮膚病にかかった人」も、「人様が何んと言おう」とも、「何をされよう」とも、主イエス様に近づき、「ひざまずいて」礼拝し、「御心(みころろ)でしたら、きよめていただけるのですが。」(1章40節後半) とお願いしました。「本物の信仰」とは「大胆に主に近づく」と共に、もう一つ大切なことは、どこまでも「主の御心を第一」とし、「御心に従う」ために、主の前に「遜る」謙虚さを兼ね備えているものです。私達の信仰生涯においても、この「大胆さ」と「謙虚さ」を併せ持つものでありたいものです。

 この「大胆さ」と「謙虚さ」を兼ね備え、重い皮膚病にかかったこの「信仰者」に対して、主イエス様は御自身の愛と憐れみに溢れた「御心」を現されました。この時、主は御手を差し伸べるだけでなく、この「重い皮膚病にかかった人」に「触れられ」ました。「恐ろしい重い皮膚病」で汚れ、更に感染することが分かっていても、主イエス様は大胆にこの信仰者に触れ、御自分をその人と一つにされたのでした。ここに「神の愛」があります。一切を捨てて、汚れた罪人の私達のために、十字架の上で御自分を犠牲にして死んでくださった主イエス様の「神の愛」の片鱗がここにあります。主イエス様は、私達が「どんなに汚れ」、「どんなに罪深い者」でありましても、信仰を持って近づくなら、しっかりと受け止めて下さいます。

 この時、主イエス様は「そうしてあげよう。清(きよ)くなれ」(1章41節)と宣言されました。原典のギリシャ語本文に近い翻訳をしている聖書では「わたしの心だ。きよくなれ」(新改訳聖書)と翻訳されています。この御言葉が発せられた途端、「すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人は清(きよ)くなった。」(1章42節)のです。主の御言葉には「権威」があり、「力」があり、主の愛と憐れみの「御心」は、具体的にこの病人の上に成就しました。

 現代の私達も、この愛と憐れみに満ちた主イエス・キリスト様に、「大胆に近づき」、その「御心に一切を委ね」、「謙虚に御前にひれ伏し」礼拝しましょう。そして「権威ある御言葉」、「力ある御言葉」に聞き従う者に約束された「天来の祝福」を受け継ぎましょう。


2020年6月7日()聖日礼拝説教要旨