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2020年10月18日

マルコ福音書6章6節後半~13節


「無駄にならないから、主のわざに励みなさい」

「どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。」(マタイ福音書10章11節~13節)

旧約聖書の「イザヤ書53章」に預言されている通りの主イエス様のお姿で「つまずいた」(マルコ福音書6章3節)ナザレ村を後にされた主イエス様は、弟子達を連れて「附近の村々」を伝道して巡り歩かれました(6章6節後半)。弟子達に伝道活動の見本を示すためだったのでしょう。

そして、いよいよ弟子達だけを伝道に遣わすに当たって、「けがれた霊を制する権威を与え」(6章7節後半)られました。「ルカ福音書」の「並行記事」には、「イエスは 十二弟子を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。」(ルカ福音書9章1節)とあります。

これは初めて行く地方の伝道活動には大変有効です。山手教会が今のこの地に開かれたきっかけは、教会の建っております土地の所有者であった川本家の操様が坊向久正先生のお祈りにより癒されなさった事からでした。柘植不知人先生も「日本のリバイバルは神癒(病気の癒し)からですよ」と言われました(小島伊助全集第7巻「懐かしの残像」)

現代も主の御名によって祈る祈りは聞かれます。2千年前の主イエス様も伝道に遣わす弟子達に「癒しの力」をお授けになったのでした。私達もまず主の御名により祈りましょう。主なる神様はその祈りに応えなさり、そこから伝道が始まります。

次に「また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。」(マルコ福音書6章8節、9節)とありあます。現代の私達には「驚き、びっくり」ですが、主イエス様の意図は弟子達の主なる神様に対する「信頼」を訓練する「信仰訓練」でした。「全ては、生きて働かれる主なる神様が与えてくださる。」との「信仰」を育てるためでした。

ある牧師先生は「神のメッセージを人々に伝える伝道者や、キリストの救いを携えて, 世界の各地に遣わされる宣教師に必要なことは、神に絶対の信頼をおいて、神のメッセージを忠実に伝えることである。しかし現代における宣教は、この基本を忘れている。大きな組織、巨大な資金、多くの物資などに安住して、本当の意味での神に対する信頼を見失ってしまう危険がある。また、貧しい国に対する宣教は、使徒(行伝)3章6節のペテロのことばのように、金銀ではなくキリストを差し出すことに徹するのでなければ、結局は大きな誤りを犯すことになるだろう。」と言われます。

「大きな組織、巨大な資金、多くの物資」よりも、使徒ペテロが言いますように、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい(使徒行伝3章6節)とハッキリ言える、主の御名を信じる「信仰」が人々を本当の救いに導きます。現代の私達も「主イエス様のお名前、御名」の権威と主イエス様の恵みを人々にお知らせしたいものです。 

続く「6章10節」には主イエス様が「神様を信じる者は、また人をも信頼すること」を教えておられる個所です。当時、「附近の村々」のどの家もまだクリスチャン家庭ではなく、またお弟子達にとては初対面の人の家でした。主は弟子たちにその「家に入りなさい」と言われました。現代は、世界人口の約1/3がキリスト教徒ですが、日本では100人に一人がキリスト教徒です。2千年前の当時どの家も主イエス様の教えとは無関係の家ばかりでした。その中で、主イエス様は「人を信頼しなさい」と言われます。この「10節」の「家に入ったなら」という個所の「並行箇所」に「マタイ福音書10章」の記事があり、こう記しています。「どの町、どの村にはいっても、その中で だれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。」(マタイ福音書10章11節~13節)。新しい翻訳聖書では、「平安」は「平和」と翻訳していまして、その家に「主なる神様との平和な関係が与えられ祝福される」ことを祈ったのでした。

 このように、弟子達が知らない人の家に行き、そこでお世話になるのは、

⑴その家の人を「信頼する」訓練でした。

⑵そして,その人のために「神様との平和」を祈って祝福するためでした。

主イエス様は、もしその家が「神様との平和と祝福を頂く」のに相応しくなければ、「平和と祝福の祈り」は祈った本人に帰って来て、「決して無駄にはならない」と言われます。「コリント人への第一の手紙の15章」にも、「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(Ⅰコリント書15章58節)とあります。現代の私達も、周りの人々を信頼し「主なる神様との平和と祝福」を祈りましょう。もし、その人やその家が「相応しくなければ」、その「平和と祝福」は、あなたに帰って来て決して無駄にはならないのです。

次の「マルコ福音書6章11節~13節」では、主が弟子達に、福音を聞いて信じない人々へ「抗議行動」を行うようにと言われました。何か「大人げない」と思いますが、そうではありません。「福音を信じる者は、救われ、永遠の祝福を得られる」のですが、「福音」を拒めば、「永遠の生命」を失い、「永遠の暗黒」が待っている現実があるからです。

「信じても信じなくても、どっちでもいい」というのは、「私達の信仰の世界」では筋違いでしょう。ご利益宗教ならこの世の「損得」だけで終わりです。「信じたら、うまく行くよ。ためになるよ。いい事があるよ。」でも、「信じないのはしょうがないね」では終わらないのです。「永遠の命」と「永遠の祝福」を失うことの「重大さ」、取り返しのつかないことが、お弟子達の「抗議」に表されている箇所です。

 現代の私達は、家族はもちろん、この世の関わりある人々のために、その人々の「永遠の命」「永遠の祝福」のために福音を伝え、「救い」のために祈り続けましょう。一つの無駄もありません。

2020年10月18日聖日礼拝説教要旨  竹内紹一郎