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2021年10月17日礼拝説教要旨
聖書箇所  マルコ福音書 15章16節~32節

  「主イエス様の十字架(1)」


「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」             (マタイ福音書16章24節~25節)

 「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。・・・あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」 (ルカ福音書23章42-43節)


 主イエス様は、死刑判決の後、鞭打たれてヘトヘトになられました(マルコ福音書15章15節)。その後、ローマ兵たちが主を総督官邸に連行し、数々の嘲弄を働きました。日頃、取扱いの面倒なユダヤ人に対して、ローマ兵の多くが持っていた鬱積した感情を「ユダヤ人の王」とされた主イエス様に、この時とばかり吐き出したのでしょう(15章16~20節)。しかし、主は黙々とそれに耐えられました。

「ちいろば牧師」の榎本保郎先生は、「私たちは・・・正当に評価してもらえないとか、何か誤解があったとか、 嘲笑されたとか、ののしられたとかいっても、イエスが受けられた侮辱にくらべれば物の数ではない」と述べられましたが、その主の御姿は「イザヤ書53章7節、12節後半」の預言の成就でした。主の黙々と御旨にお従いされるお姿があったればこそ、私達は罪赦され「永遠の命」が与えられました。「イエス様、ありがとうございます」と感謝するのみです。

主イエス様は夜通し裁判を受けられ(マルコ福音書14章53節~15章1節)、更に鞭打たれなさって体力が奪われ、フラフラの状態でした。重い「十字架の横木」を背負われた主イエス様は途中で倒れられました。その時、たまたま近くを歩いていた「クレネ人のシモン」が、主の背負っておられた「十字架」を無理矢理に背負わせられました(15章21節)。

無理矢理に十字架を背負わせられ「不運なシモン」また「運の悪い奴」ですが、人生何事にも意味のないものはありません。実は、この「シモン」が後に主イエス様を救い主と信じて立派なクリスチャンとなり、家族も救われ、当時の紀元50年代のキリスト教会で有名な「アレクサンデルとルポスとの父シモン」(15章21節前半)、また「ルポスとその母親」(ローマ書16章13節)と新約聖書に記されるクリスチャン・ホームとなったのでした。主は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ福音書16章24節~25節)と言われます。「十字架を負う者」は必ず「本当の命(永遠の命)」と「本物の祝福」に至るのです。

 その後、主イエス様はゴルゴタの丘(現在の「聖墳墓教会」)に着かれ(マルコ福音書15章22節)、残酷な十字架刑の苦しみを少しでも和らげる「ぶどう酒」をなめただけで「お受けにな」りませんでした(15章23節、マタイ福音書27章34節)。十字架の苦しみを味わい尽すためであり、敢然として十字架に向う主イエス様のご決意を示されました。

「朝の九時ころ」主イエス様は、「ユダヤ人の王」と罪状書きの記された十字架に付けられました。立てられた十字架の下では「役得」に目のくらんだローマ兵たちが、主イエス様の上着と下着を「くじ引き」で分け合いました(マルコ福音書15章24節~26節、ヨハネ福音書19章23,24節)。他に二人の強盗も十字架につけられましたが(マルコ福音書15章27節)、それは「イザヤ書53章12節後半」の預言の成就でした(15章28節)。主は、黙々と御言葉に記された御旨に従われまた。

一方、道を行く者も十字架上の主イエス様を罵り、ユダヤ教の指導者の祭司長たちも律法学者たちと一緒に「十字架からおりてきて・・・自分を救え」「いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」と、けしかけ罵ったのでした。更に、強盗までもが主を罵りました(マルコ福音書15章29節~32節)。しかし、主イエス様は少しも反論されず、聖書の御言葉が成就して全人類の全ての罪が赦されるように、その刑罰と嘲りと罵りにじっと耐えておられました。

そのお姿に、二人の強盗のうちの片方が目覚めました。「ルカ福音書23章39節~43節」には「目覚めた強盗」の姿があります。当初、強盗たち二人とも一緒になって主イエス様を罵っていたのですが(マルコ福音書15章32節、ルカ福音書23章39節)、ある時点からそのうち一人が変わったのです。

主は、「イザヤ書53章」の預言の通り「ののしられても、ののしり返さず」黙して一切を父なる神様にお委ねになったのですが、そのお姿をじっと眺めていた強盗の一人は、もう一人に「おまえは同じ刑罰を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは、自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。」(23章40、41節)。

 このように片方の「強盗」は、何も悪いことをしていないのに十字架に架り、神様の御手に一切を委ねなさる主イエス様の「神々しい御方の御姿」に触れて、⑴自分の罪深さに気づき、⑵神様の前に必ず裁かれるものであることを悟って、⑶心から今までの罪を悔い改めたのでしょう

そして、この「強盗」は、主イエス様に「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言いました(23章42節)。この「思い出してください」とは、「救ってください」との意味が込められています。主イエス様は、この犯罪人の ⑴自分の罪を認める「認罪」と⑵「悔い改め」と ⑶「思い出してください」という「信仰の告白」を聞かれました。そこで、主は「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」(23章43節)と答えられました。「パラダイス」とは、「イエス様を救い主と信じて、死んだ人々が復活して、新しい身体が与えられまでの間、このパラダイスで休息する」と考えられています。

この後、犯罪人は主と共に「パラダイス(楽園)」に挙げられましたが、立派な行いをしたのでもなく、人の褒める素晴らしい業績があったのでもありません。全く逆の、罪と汚れの生涯を送り、十字架刑という一番むごたらしい死刑にされるような「最悪の人生」でした。しかし、救われて「永遠の命」を得ました。現代の私達も、立派な行いや品性で救われるのではなく、ただ「自らの罪深さ」と「汚れ」を知って心砕かれ、悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じることで「完全な救い」が与えられるのです。
                   2021年10月17日(日)第3聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎