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2023年10月29日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  テモテへの第一の手紙2章5節~7節         

          「神と人との間の仲介者」   


「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」          
(イザヤ59章1、2節)


「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。 」
(Ⅰテモテ書2章5節)


「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」
(イザヤ書49章15節)

 

「宗教改革」は、今から506年前の「1517年の10月31日」に、「マルチン・ルター」が、当時のカトリック教会に抗議をしたことから始まりました。その「抗議する、プロテストする」という言葉から、「プロテスタント」という言葉が生まれてきまして、その流れを汲む教会が、私達の「プロテスタント教会」です。今日は、週報に折込んでいます「プロテスタント聖書信仰は、カトリックとどう違うか」という比較資料から、私達の「プロテスタント信仰」を更に良く理解していただいて、「聖書の教えにしっかり立った信仰生活」を送っていだき、祝福を更に豊かに受けていただきたいと願います。

 「比較資料」の【1】の「No.1番」の「『信仰の基礎』とは何か?」で、私達プロテスタント教会では「信仰の基礎」は「誤りなき神の言葉としての聖書(旧約39巻、新約27巻で、合わせて旧新約聖書66巻)のみ」です。ですから「キリスト伝道隊」の「信仰基準」に「聖書六十六巻はすべてその原典において、神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばであり、全幅の信頼を寄せうるものである。…信仰と生活のすべての面において、唯一の基準…」とあり、山手教会が属する「日本基督教団信仰告白」でも「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。…信仰と生活との誤りなき規範なり…」とあります。それで毎週「聖日礼拝」では、「聖書66巻」の中から聖書箇所が選ばれて、解き明かしとしての「説教」が一番中心になり多くの部分を占めています。

一方、カトリック教会では「聖書+α」です。「+α」の「伝承」とは、⑴口伝(くでん)(文字になっていない口伝(くちづた)え)による「キリストと使徒達の教え」で聖書に記されていない教え ⑵古代教父と歴代のカトリック教会の「数々の教え」で、「聖書から逸脱した教え」もあります。その一つが【3】「マリヤ崇敬」です。

 主イエス様を産んだ「母マリヤ」は、主イエス様を聖霊によって身籠る時、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と告白した、素晴らしい御言葉信仰をもつ真実な信仰者でした。しかし、主イエス様と同じような存在ではなく、十字架に架かった訳でもありません。「信じて」「仰いで」「お祈りする」信仰の対象ではありません。聖書にはそのような事は少しも書いていません。

また、【1】の「No.3番」の「神と人との『仲保者』は誰か?」との質問で、私達プロテスタント教会は「救い主イエス・キリストのみ」とあります。天地万物を造られ、人間を始め命あるものすべてを統べ治めておられる主なる神様(父なる神様)と罪深い私達との間で執り成して下さる「仲介者(仲保者)」は救い主イエス・キリストのみです。その証拠に、私達の祈りの最後に「主イエス・キリスト様のお名前でお祈りします。」と申します。それは「父なる神様、今までお祈りしました感謝と願いを、私の熱意や言葉の巧みさではなく、主イエス・キリスト様のお執成しの故に聞いてくいださい」と神様に申し上げているのです。

 もし、「主イエス様のお執成し」がなかったら、祈りは絶対に(100%)、父なる神様には届きません。  私達の犯している罪が大きな「隔ての壁」となって、父なる神様と私達の間を完全に遮るからです(イザヤ59章1、2節)。主イエス様が、その「隔ての壁」を乗り越えて、私達の「感謝と願い」を父なる神様に届けてくださるのです。

ところが、「No.3番」の「神と人との『仲保者』は誰か?」で、カトリック教会では「救い主イエス・キリストと主の母マリヤと諸聖人」とあります。マリヤは、既に述べた様に素晴らしい信仰者ですが、だだの人間です。「諸聖人」と言われる「過去の立派な信仰者(ペテロ、ヨハネ、パウロ等)」も神様と人間の「仲介者」としての役割を担うとれてきましたが、聖書は「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(Ⅰテモテ書2章5節)でハッキリと宣言します。唯一の真の神様(父なる神様)と私達・人間の間の「仲保者(仲介者)」は「救い主イエス・キリスト様」お一人だけです。

何故、聖書には記されていない事柄がカトリック教会の教えになったのでしょうか。ある牧師は「そもそも『マリヤ崇拝』が生まれてきたのは、私たちの歴史の『父権制(ふけんせい)社会』(男性が社会的重要性を担っている社会、またはその社会制度)が、神様を、あまりにも男性的にしてしまったからではないか、…『マリヤ崇拝』というのは無意識のうちにそのひずみを補正しようとしているのではないでしょうか。…本能的に『おかあさん』としての神様を求めているのです。…神様は、本来、そういう面を持っているはずだからです。私は、プロテスタント教会の牧師として言うならば、『マリヤ崇拝』という形ではなく、天の神様は男も女も超えた存在であり、『母なる神』でもあることを、信仰的に、聖書の中から読み上げて…神様の豊かなイメージを回復していかなければならない」と言われます。 

確かに「イザヤ書」で主なる神様は「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」(同書49章15節)とおっしゃいます。父なる神様は、どのような憐れみに溢れた母親よりも、更に豊かな憐れみをもって私達一人一人を慈しみ、守り、支え、育んでおられ、私達一人一人を忘れなさらない「愛の神様」です。

また「父なる神様」と共に「三位一体の主なる神様」としての「救い主イエス・キリスト様」がおられ、公の伝道生涯とゴルゴダの丘の十字架の上で、全ての人を愛して自らの生命を捨てる愛と憐れみに満ちた御方としての御自分を示されました。

主イエス様こそ「父なる神様」にない「母なる神」の要素をもって、私達を見守り、育み、支えていてくださる「愛と憐れみの神」でいらっしゃいます(賛美歌312番「慈しみ深き」2・3番参照)。そして、「父なる神様」と「私達」の間を取り持ち、祈りを聞き執り成して下さる「唯一の仲介者」でいらっしゃるのです。私達は、この方の「お名前」によってのみ「父なる神様」のもとに行くことができ、祈りが聞かれるのです。

             2023年10月29日(日)宗教改革記念日礼拝説教要旨 竹内紹一郎