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2023年11月5日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  ヨハネ福音書 4章46節~54節         


  「家庭を祝福される主イエス様」 

 

「イエスは彼に言われた、『お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ』。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。」   
(ヨハネ福音書4章50節)


「見ないで信ずる者は、さいわいである。」
(ヨハネ福音書2029)


「もし信じるなら 神の栄光を見る・・」      
(ヨハネ福音書1140節)

 

子供たちは家庭の宝ですし、教会にとっても宝です。彼等の存在は家庭に喜びをもたらし、教会にも喜びをもたらします。そして、家庭の将来も、教会の将来も、日本の将来も、世界の将来も彼らにかかってることは確かなことです。そのような「大きな素晴らしい可能性」を秘めた彼等ですが、しかし、保護者の皆様や大人たち、そして教会の皆さんの「愛と祈り」で守られなければならない「弱い存在」でもあります。

 主イエス様が、ガリラヤのカナに再び行かれ時、カペナウムに住むある役人の息子が病気をして苦しんでいました(ヨハネ福音書4章46節)。このカナは山あいの村でカペナウムから約30kmの道のりのところにありました。2000年前ですと朝から夕方まで歩き詰めて何とかその日の内に辿り着くか、途中一泊する程の道程(みちのり)でした(4章52節参照)。

このカナ村は、主イエス様の育たれたナザレ村からは北に10km前後の近い所にありました。イエス様のお母さんのマリヤがその村であった「結婚式」の裏方(接待役)を務めましたし、イエス様もその「結婚式」に招かれ、弟子達と共に出席されたました。その「結婚式」の途中に大切な葡萄酒が無くなってしまいまして、お母さんのマリヤを始め裏方一同が頭を痛めていたのですが、その時に主イエス様が「水をぶどう酒に変えられる」という最初の「しるし(神の独り子キリストである事を証明する奇跡)」を行われました(2章1~11節)。その「奇跡」は、この山あいの「カナ村」だけでなくガリラヤ地方一帯に知れ渡ることとなり、「カナ村」を説明するのに「前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。」(4章46節)と記しています。

 主イエス様は、御自分が「神の独り子」「神」であることを表す最初の「奇跡」を結婚式において行われて「家庭」の出発点(原点)の「結婚」を祝福されました。それ故に「結婚」を尊ばれ、「家庭」を守られ、「家庭」を祝福される神様です。勿論、主イエス様は単身の方にも多くの恵みの御業をなさり、祝福されたことが各福音書にはいくつも書かれていますので、色々の境遇におられる方々をも顧みてくださっています。

 私達の人生にも家庭にも多くの問題が起こります。「家庭」の問題を解決していただくために、主イエス様に解決を求めてお祈りできるとは何と幸いかと思います。主イエス様は「 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ福音書11章28節)と言われ、人生の困難、家庭の問題、子育ての問題とその重荷を共にして解決してくださるのです。 

今日の聖書箇所の「病気をしているむすこを持つある役人(別の翻訳聖書では「王室の役人」)」(ヨハネ福音書4章46節後半)は、ガリラヤ地方とペレヤ地方を支配しいた「ヘロデ・アンティパス王」に仕える「王室の役人(日本なら、宮内庁の職員)」の一人で、カペナウムに自宅がある高級官僚[「僕たち」(4章51節)もいる」でしたが、彼の息子は病気で危篤状態でした(4章47節後半)。

「カナ村」や「カペナウムの町」がありますガリラヤ地方では、「カナ村」の結婚式で、主イエス様が「水を葡萄酒に変えられた奇跡」を行われたことが広く言い伝えられ、この地方で主イエス様によって病人が癒されたことが他の3福音書に多く記されています。その噂を聞きつけたこの「王の役人」は、自宅のあるカペナウムの港町から30kmもある道程(みちのり)をテクテク歩いてカナの村に来て、主イエス様に「死にかかって息子」を癒してくださるように頼んだのでした。病名は不明ですが医者も匙を投げ、万策尽きて最後の望みとして「奇跡をなさる」と聞いた主イエス様のもとに来たのでした。

その時、主イエス様は「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じない」(4章48節)と言われました。それは、この息子の病気の癒しを願っています「父親一人」の信仰だけでなく、「あなたがたユダヤ人達は、(わたしがする…すなわちイエス様がする)しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4章48節;詳訳)と言う意味です。

「コリント人への第一の手紙」には、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探します。」(同書1章22節[新共同訳])とありますように、当時も今もユダヤ人は「しるしを見たら信じる」「しるしがなければ信じない」と考えております。でも、それは正しい信仰ではありません。神様から恵みをいただく信仰は「信じたら神の御業、奇跡が起こる」信仰で、その事を父親に示すために主イエス様はあえて「しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じない」と突っ慳貪(つっけんどん:突き放すよう)に言われたのでした(マタイ福音書15章21~28節)。

この時、父親は希望を失って主イエス様の許から立ち去ったかと言いますと、そうではなく、主イエス様に「期待する信仰」に踏みとどまりました(ヨハネ福音書4章49節)。彼は、「主イエス様しかない。この方こそ、危篤の息子を助けて下さる」との「信仰」に立ち続けたのでした。そしたら、主イエス様は「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」(4章50節)と言われました。

その御言葉を信じて、この父親はカペナウムの自宅へ帰っていったのでした。しかし、この時点では30km以上の離れた自宅の息子の状態は何も分かりません。でも「信じている主イエス様のお言葉ですから」と、何の「しるし」も「不思議な業」も「示し」もなくても、ただ主イエスの御言葉を信じて従ったのでした。

その信仰の結果、「きのうの午後一時に熱が引きました」(4章52節)とあります。危篤の「むすこは助かるのだ」と主イエス様が語られ、その御言葉を父親が聞いて信じた「その時」の「午後1時に」(息子の)熱が引いて助かったのでした。

 この「ヨハネ福音書」では、主イエス様は「見ないで信ずる者は、さいわいである」(同書20章29節)、「もし信じるなら神の栄光を見る」(同書11章40節)と言われます。これが神様の求めておられる「信仰」です。そして、その信仰には必ず「結果(主の御業)がついて来る」のです。

         2023年11月5日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎