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2023年12月3日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所 使徒行伝24章27節~25章12節      


      「世に勝ち給う主イエス様」


「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」             
(ガラテヤ書4章4節)

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」 
(伝道の書3章1節)


「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」                       
(伝道の書3章11節)


「主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。」
(詩篇121篇7,8節)
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「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」                 
(ヨハネ福音書16章33節後半)



パウロが、エルサレムのユダヤ人の暗殺計画を逃れてカイザリヤの総督ペリクスの許に護送された時から「二か年」経ち、ペリクスに代わり新任のポルキオ・フェストが着任しました(使徒24章27節)。それまでの2年間、パウロは総督官邸で、来る日も来る日も「先行きの見えない」2年間の監禁された日々が続きました。

その時パウロは、エルサレムで拘留されていた夜に主イエス様がパウロに「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない。」(23章11節)と言われた「約束の御言葉」を思い出して「主イエス様、いつまで監禁されなければならないのですか。いつローマの都に行って福音を証し出来ますか?」と祈っていたのではなかと思います。

 私達の信生涯も「先が見えない」ことが殆んどではないでしょうか。でも「時が来れば神様の約束は成就」しますし、「信じることは、待つこと」です。私達にも事を行う時に「順番」や「段取り」がありますが、主なる神様のも「主の段取りがある」のです。そして、時が来れば事は成就します。

アドベント(待降節)の時期に心に思い浮かぶ御言葉に、「しかし、時の満ちるに及んで(別訳「時が満ちると」)、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」(ガラテヤ書4章4節)とあります。これは、私達の救い主イエス様の御降誕の「クリスマス」ことを記しています。「クリスマス」の出来事は、今から2700年程前に活躍した預言者イザヤが預言し、多くの人々に待ち望まれて、700年後に成就しました。長く待ち望んで「成就しなかった」「立ち消えになった」のではなく、預言の御言葉の通り、私達の救い主イエス様は「時の満ちるに及んで(時が満ちると)」お生まれになりました。

何事も時があり「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。・・・神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(伝道の書3章1節,11節)のです。ですから、「時が来れば事は成就し、神様の約束は成就します。「信じることは待つこと」なのです。祈りの課題、願いは「信じて、待つ時」に、「時が満ちると」成就します。祈って参りましょう。

パウロが、この時に「道が開かれる」様子は、「意外なもの」「予想外のもの」でした(使徒25章1節~3節)。パウロの拘留、裁判、暗殺計画発覚と失敗から2年が経っていましたが、エルサレムのユダヤ人たちの「敵意」「憎しみ」は消えていませんでした。彼らは新総督のフェストに「彼(パウロ)をエルサレムに呼び出すよう取り計らっていただきたいと、しきりに願った。彼らは途中で待ち伏せして、彼を殺す考えであった」(使徒25章3節)とあります。何も分からない新任の総督フェストでしたから、ユダヤ人がしきりに願って訴える訴えに応えることも可能と思われるのですが、この時にフェストは日程や都合等の些細な事でユダヤ人の訴えを退けたので、パウロは守られました(25章4節~5節)

私達の信仰生涯でも、何気ない事でしっかり守られていることが多くあります(詩篇121篇7,8節)。私達はそれに「気付いていないだけ」ではないでしょうか。思い出せば「ひやりと」したこと「はっと」したことが幾つもあり、背後に主なる神様がしっかりと守って来られたのです。

 この時、新任の総督フェストは総督官邸のあるカイザリヤに帰ると、翌日、さっそく裁判を開きました。エルサレムから来たユダヤ人たちは、法廷に引き出されたパウロを取り囲んでさまざまな「重い罪状」を申し立てました(25章6~7節)。けれども、身に覚えのないパウロはハッキリと「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」(使徒25章8節)という弁明を繰り返しました。

 ユダヤ人とパウロの「両者の言い分」が全く平行線をたどっていて解決のめどが立たないと判断した総督フェストは、「ユダヤ人の歓心を買おう」とパウロに「おまえはエルサレムに上り、この事件に関し、わたしからそこで裁判を受けることを承知するか」と問いかけました。時の為政者は、どの時代も「真理」や「正義」ではなく、常に民衆におもねり民衆の歓心を買おうとします(使徒25章9節、24章27節、マルコ15章15節)

一方、この言葉はパウロにとって「暗殺されるに違いない。また人々の永遠の祝福に関わる福音を宣べ伝える使命を果たすことが出来なくなる。」ことを意味していましたので、咄嗟に総督フェストの提案をキッパリと断って、この窮状から逃れるために彼のローマ市民としての権利を行使して、「カイザルに上訴し」ました(25章10節~11節)。

すると、ここで「パウロのローマ行き」が決定され(25章12節)、2年間に亘るカイザリヤの総統官邸での監禁生活が終わり、主イエス様が2年前に仰った「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない。」(使徒23章11節)との御言葉が成就して、ローマへの道が正式に開かれたのでした。

それは、意外にもパウロの立場を無視した新総督フェストの「自己中心」で「ユダヤ人におもねる発言」からでした。バックストン先生の秘書を務めた米田豊師は「この2年間は、彼(パウロ)にとって信仰と待ち望みの試練の時で・・・忍びに忍んで待ち望んだ。そして今、思いがけない時に、ふとした事から彼の年来の宿願(ローマ書1章9~11節)が成就する道が開かれようとしているのである。これは決して偶然ではない。神の摂理のプログラムがここまで来て、ようやくその道が開けはじめたのである。・・・人がどんなに邪魔をしても、神の御旨は必ず成り、神の約束は必ず成就する」と解説しています(週報裏表紙【礼拝説教資料】)

現代に生きる私たちも、人々の自分勝手な行動で振り回され、また多くの欺瞞や悪意に晒されて疲れ果てることもありますが、主イエス様は私達を励まして「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)と言って、共にいて下さいます。この御方を信じてその御言葉にお従いしましょう。

          2023年12月3日(日) 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎