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2024年3月31日聖日礼拝説教要

聖書箇所  Ⅰコリント書15章1節~8節    


「よし子ちゃんのこと 十字架と復活の恵み」

キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。」
(Ⅰコリント書15章3~6節)

主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」                                       
(ローマ書4章25節)

 

復活された主イエス様と出った人々ついては、「Ⅰコリント書15章前半」に詳しく載っています。その主の復活を証しする人々の最初に「ケパ(12弟子の筆頭のペテロ)」の名前があります。「次に、十二人(12使徒)に現れた」とあります(15章5節)続いて、「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している」(15章6節)とあります。これは、イエス・キリスト様の復活は幻覚ではなく、何百人もの証人がいて、その中にはすでに死んでいる者もいるが、ほとんどは今も生きているので、主イエス様の復活を疑うなら、その目撃者たちに聞きただしてもらいたいとの意味が含まれています。

更に「7節」には、「そののち、ヤコブ(以前は兄のイエス様を信じなかったのですが[マルコ3章21節]、復活された主イエス様に出会って不信仰を悔い改め、主イエス様を救い主と信じ、その後エルサレム教会の牧師となったに現れ」とあります。そして、「8節」では、「最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたし(パウロ)にも、現れたのである」とあります。このように、「主イエス様の復活」は多くの目撃者たちに証しされている歴史的事実です。

更に、復活された主に出会った使徒たちは、「命がけで(命を賭して)」証ししました。ペテロは、「逆さ十字架」(頭を下にして十字架に)かかってローマで殉教し、アンデレもアカイア州でX字型の十字架で殉教し、ヨハネの兄ヤコブはヘロデ・アグリッパ王の剣に倒れ殉教しました(使徒行伝12章)。ピリポは、フルギヤで石打ち刑によって殉教し、バルトロマイ(ナタナエル)は「アルメニア」で殉教しました。疑い深かったトマスはインドまで行って福音を宣教して殉教し、マタイはローマ皇帝のドミティアヌス帝の時に殉教しました。アルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)はエルサレムで殉教しました。タダイ(ヤコブの子ユダ)は「アルメニア」で殉教しました。熱心党のシモンも「アルメニア」で殉教しました。イスカリオテのユダに代わって主の復活の証人となったマッテヤもエルサレムで「石打の刑」で殉教し、教会迫害の急先鋒だった使徒パウロも皇帝ネロの迫害の時にローマで殉教しました。

 因みに、「バルトロマイ」「タダイ」「熱心党のシモン」が殉教した「アルメニア」は紀元AD301年に世界で最初にキリスト教が国教(国の宗教)になった国家です。「命を賭して」主イエス様の復活を証しした地、町にはキリスト教会が建ち、国教(国の宗教)となりました。

彼らは「イエス・キリスト様の十字架の死と復活」が作り話や、でっち上げではなく、命を懸けても人々に伝えなければならない大切な事実だと確信し、時の権力者や国家の迫害にもめげず命を懸けて「主の復活」を伝えたのです。彼等の「殉教」で、(1)「キリスト教は根絶やしにされた」、(2)「キリスト教会は無くなった」(3)「クリスチャンはいなくなった」のではなく、逆に、教会は確信をもって復活された主イエス様とその教えを伝え2千年経ちました。現在、全世界の13以上の人々が復活された主イエス様を信じています。

 使徒たちが「命を賭して」証しした「主イエス様の復活の結果」として、⑴「復活は、主イエスの神性を保証する」主が甦えられたのは、神の独り子(神様)である証拠です(ローマ書1章4節)。⑵「復活は、私たちの義認にとって不可欠なものである」主は私達の罪を負い、十字架に架かって死なれましが、甦られなかったら「ただの人」「一人の人間が死んだだけ」です。御自分が「神の独り子」であり、甦ってくださったので、御子イエス様を信じる全ての人が「正しい(義)」と認められます(ローマ書4章25節)。⑷「復活は、最後の審判を確実なものとする」復活された主こそ、不正と嘘と、汚れと罪に満ちたこの世界を正しく裁かれる御方であることが確かであると証明されたのです(使徒17章31節)。⑸「復活はすべての者に、死ぬことのない希望を与える」主が復活されました。私達も主に続いて新しい栄光の体に復活することを明らかにされました(Iコリント15章20節)。

関西聖書神学校の舎監、学監、校長をされた向後昇太郎先生の愛娘「よし子ちゃん」は、8才の時に発病して高熱が続き危篤状態でした。戦後の間もない頃、貧しい伝道者の向後先生は高価な薬を買うことも、設備の整った病院に入院させる余裕もなく、ひたすら神様にわが娘の癒しを祈るばかりでした。

あまりにも苦しむ「よし子ちゃん」に、お父さんは思わず、その苦しみから解放させて上げたいと思い、「よし子、天国に行きたいか?」と尋ねました。すると「よし子、天国に行きたくない。お母ちゃんと離れたくない」と答えました。「よし子ちゃん」にとって死は恐れであり、お母さんやお父さんから引き離されることは怖いことでした。

 しかし、数日苦しみが続く中で、今度は「よし子ちゃん」の方から「よし子、天国に行きたいの」と言い出したのです。お父さんは「よし子、どうしたら天国へ行けるかね」と尋ねると、しばらくして「良いことしたら」と答えました。人間の性(さが)として「良いことをしなければ天国に行けない」という思いが、こんな幼い子どもの心にもこびりついていました。

「じゃあ、よし子、何か悪いこと、罪があるの?」と聞くと、ぽつりと「お姉ちゃんとケンカした。ウソついた」との答えるのです。「そんな小さな罪?」と思われる罪でも天国の扉を閉ざすとは、本当に罪とは恐ろしいものです。そこでお父さんは、罪の一かけらもないイエス様が、「よし子ちゃん」の身代わりになって十字架にかかり、「よし子ちゃんの罪」を赦してくださるという「救いの福音」を語りました。

じっと聞いていた「よし子ちゃん」は、「ああ、わかった! ああ、よかった!」と顔をほころばせました。主イエス様の十字架の血潮により、ただイエス様を信じるだけで罪が赦され、義と認められ、「天国へ行くことができる」との確信が与えられたのです。「よし子ちゃん」は、お父さんに「イエス様、信じない方、お気の毒ね。お父ちゃん、伝道に行ってきてちょうだい」と言いました。

しばらくして「よし子ちゃん」は天国へ召されていきました。「よし子ちゃん」のこの救いの証しを通して救い主イエス様を信じる方がたくさん起こされました。

「復活の結果」として「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされ」 (ローマ書4章25節)信じる私たちを救い、共にいて下さるのです。

        2024年3月31日(日)イースター礼拝説教要旨 竹内紹一郎