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2024年4月7日聖日礼拝説教要

聖書箇所  使徒行伝28章23節~31節  

   「神の国と主イエス・キリストの福音」


「パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。」     
(使徒28章30,31節)


「ある人々はそれを信じたが、また信じない人々もいた。彼らは二派(二つの派)に分かれて帰りかけた」       
(使徒28章24、25節[現代訳聖書])


「そこで、わたしは問う、『彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか』。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。」 
(ローマ書11章11節)


「一部のイスラエル人が かたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。」
ローマ書11章25節後半、26節)


パウロは、ローマに到着した後、多くの人々を迎えました。そして、「朝から晩まで、パウロは語り続け・・・」とあります(使徒行伝28章23節)。3年前にローマの教会の信徒に宛てた「ローマ人への手紙」で、「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。」(ローマ書1章11節)と書きしるしていたのでした。

このようなパウロの願いと祈りが成就したので、「やっと会えた」からでした。だから「朝から晩まで、パウロは語り続け」たのでしょう。その内容は「神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた」とあります。パウロの説教の中心は、「神の国」と「モーセの律法や預言者の書」であります「旧約聖書」に預言された「イエス・キリスト」です。この「使徒行伝」の最後には「はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」(使徒28章31節)とあるとおりです。

パウロの語ったメッセージで「神の国」とは「神様のご支配」のことです。聖書協会共同訳や新共同訳聖書の巻末の「用語解説」には、「神の国」にいて「神が王となって恵みと力をもって支配されること」とあります。私たちがよく用いる「似た意味の言葉」では「神の臨在」のことです。

今、私達は、主イエス様を始め、肉眼では見えない主なる神様の「御臨在」を覚えて、礼拝を捧げています。「神の国(神様のご支配)」の中で、主なる神様に賛美を捧げ、祈りを捧げて礼拝しています。この事を可能にしたのが「主イエス・キリスト様」です。

主イエス様が十字架で流された御血潮、御宝血によって一切の罪を赦された私達だからこそ、はばかることなく主なる神様に近づいて、礼拝を捧げさせて頂いているのです。ですから、私達が「神の国」「神様のご支配」「ご臨在」に与ることが出来ているのは、主イエス様とその「御血潮」「御宝血」のお陰です。それで、パウロは、何をおいても、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。」(使徒28章31節)のでした。                   

 ところが、「ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。互いに意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた」(使徒28章24節、25節)」とあります。別の翻訳聖書では「ある人々はそれを信じたが、また信じない人々もいた。彼らは二派に分かれて帰りかけた」(使徒28章24、25節[現代訳聖書])と訳してします。       

ある牧師は、「福音が語られるところででは、常にこのような分裂が起こる。福音はこれを聞く者に、信じるか信じないかの厳しい決断を迫るからである。」と言われます。これまでの「使徒行伝」の学びでも、福音が語られた町は何処ででも、「福音を信じる側」と「福音を信じないで、救いから遠のく側」の「二つの派」に分かれたのでした。現代の私達の回りの人々、関係する人々も同じではないでしょうか?

このような事態を深く悩んだパウロが、旧約時代の預言者イザヤの預言(28章25節の後半~27節)に行き着きました。そして、神様の御心として「あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」(28章28節)とありますように、ユダヤ人が頑なに「主イエス様の十字架と復活の救いの福音」を拒んだので、私達、異邦人が救いに与るようになったと言うのです。

では、パウロは「同胞のユダヤ人を見捨てた」のかと言いますと、そうではありません。「キリスト教の本質」を語りつくしている「ローマ人への手紙」には、パウロは「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼ら(ユダヤ人)のために神にささげる祈は、彼らが救われることである。」(ローマ書10章1節)とあり、続いて「そこで、わたしは問う、『神はその民を捨てたのであろうか』。断じてそうではない。」(ローマ書11章1節)とあります。更に、「そこで、わたしは問う、『彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか』。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。」(ローマ書11章11節)とあり、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。」(ローマ書11章25節後半、26節)と「同族のユダヤ人の救い」につての「神様の御心」を語っています。神様の御心は、「異邦人」である私達も救われ、「神の民」と呼ばれるユダヤ人も共に救われるように、あえて、ユダヤ人が「頑なになるのを許されたのだ」と言うのです。

羽鳥純二牧師(羽鳥明ラジオ牧師の実弟)は、戦時中の学生時代、東大で「化学」を専攻され、「火薬科」に在学している時に終戦を迎えられました。その後、共産党に入党し、マルクス主義者の闘士として共産党の機関紙・新聞の「赤旗」の編集員をしておられました。

17年前に、その弟の純二さんに兄の明先生が「福音」を語り、伝道された時「福音を信じないで、救いから遠のく側」に行かれたのでした。ところが17年も経って「弟はダメだ、もう救われない」と思っていたのですが、その純二さんが米国から帰国した羽鳥先生を出迎えられ、更にイースター礼拝と次の日曜礼拝に出て、福島出身の牧師先生のメッセージを聞いて、主イエス様を信じて救われました。その後、その牧師である安藤喜市先生のもとで牧師となる訓練を受けて牧師となり、お兄さんの羽鳥明先生と共に「放送伝道」に携わられ、名古屋の教会で長く牧師をされ、神学校の校長も務められて12年前(2012年)に86歳で天の主イエス様の許に召されなさいました。

愛する人々が頑なになっても、祈り続ける時に救われるのです。

         2024年4月7日()  聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎