本文へスキップ

message

2024年4月14日聖日礼拝説教要


イエスの復活の意義


 「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」  
                            (ルカ福音書24章5節)
 金曜日に十字架に掛かられたイエスは、その日のうちに十字架から下ろされ、アリマタヤのヨセフが自分のために用意していた真新しい墓にイエスを葬りました。そして日曜日の朝、女性たちがイエスの墓に詣でたところがも抜けの空でした。どうしたのか、何が起こったのか当惑していたら、そこに「輝いた衣を着たふたりの者が現れ」、イエスの復活を知らせたので、彼女たちの不安は喜びに変えられました。また、この知らせを聞いた弟子たちの悲しみも喜びに変えられたのです。

 さて、イエスが復活されたということは、まず第一に、「イエスがサタンの力に打ち勝たれた」ということです。サタンはイエスが復活しないようにと全力を注いで阻止しようとしましたが、イエスはサタンの力に打ち勝たれたのです。第二に、イエスの復活は、わたしたちの罪の贖いが成就(完成)したということです。
つまりイエスの十字架は、わたしたちの罪を贖うために、わたしたちに代わって死んでくださったのです。ですからわたしたちの罪の贖いが成就(完成)したのです。

 第三に、イエスの復活は、わたしたちも復活の信仰が与えられましたから、全世界で喜ぶのです。

 ヨハネ福音書11章25節に『わたしはよみがえりであり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。また、生きていて信じる者は、いつまでも死なない』とあります。これは人類に与えられた最高の福音です。なぜなら、人類のいちばんの大敵は死です。これは始祖アダムとエバがエデンの園で神の命令に背いて罪を犯した結果、人類はみな死ぬ者となりました。そしてそれは百パーセントの確率です。それから逃れることのできる者は一人もありません。つまり、この世に生を受けたそのときから、最後は死ぬものなのです。
ですから、人間は死を恐れるのです。死そのものを恐れるというよりも、死後の神の審判を恐れるのです。神の審判は、聖徒にとっては報いを受けるときですから、なにも恐れることはありませんが、罪人にとっては裁きのときだから恐れるのです。

 またイエスは、『わたしを信ずる者は、死んでも生きる』と言われましたが、これはキリストの再臨のときに聖徒は復活するということです。この復活の信仰をもっている者は死を恐れません。

 ヘブル書2章14節『それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自身の十字架の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた者たちを解き放つためであった』とあります。わたしも子供のころ、死の恐怖の奴隷のような状態でした。それは12歳のときに母を失い、またその前年に姉を失いましたので、死という事を真剣に考えて、狂えるごとく怯える少年でした。しかし神に近づき、聖霊の力に満たされるようになり、いつしか死の恐怖から解放されたのです。まさしくこの言葉どおりでした。

 「信心なんて弱い者のすることだ」と言って、強いこと言っていたお爺さんが体調を崩して入院しましたが、夜になると「このまま死んでしまうのではないか」と、不安でまんじりともできませんでした。その様子を見た娘さんが「教会の先生を呼んできましょうか」と言うと、「うん、呼んできてくれ」と言いますので、自分の行っている教会の牧師を呼びました。牧師は聖書の言葉を開いてお話をしていましたが、待ちきれなくなったお爺さんが、「先生、わたしに洗礼を授けてください」と自分から言ったのです。そこで早速、病院で病床洗礼式をしました。

 その後、お爺さんはみるみる元気になり退院しましたが、まるで嘘のように元気になりました。そして教会に熱心に通い信仰に励まれるようになりました。そして数年後に召されましたが、その最後は、片手を高く掲げて「万歳、万歳、筒一杯の感謝をささげます。
これから天国に凱旋します」と言って息を引き取られました。見事な召天でした。入院していたときはあれほど死を恐れていた人が、「万歳、万歳」と言って召されたのは、彼が洗礼を受けて復活の信仰が与えられ、「死の恐怖から解放されたから」です。

 まだ死の恐怖のなかにおられる方は、どうぞイエス・キリストを信じてください。神はその人の魂を救い、永遠の生命を与え、復活の信仰が与えられます。もう死も恐ろしくなく平安が与えられます。

                                                坊向輝國