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2024年4月21日聖日礼拝説教要

聖書箇所  マタイ福音書15章21節~28節

      「主よ、わたしをお助け(お救い)ください」

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。」        
(詩篇46篇10節)

「しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助け(お救い)ください』」
(マタイ15章25節)

「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。                  
(マタイ福音書15章27節)


主イエス様とお弟子たちは、連日多くの人々が押し寄せたので、疲れてしまいました。それで、大切な「休息」と「神様を仰いで、静まるの時」(詩篇46篇10節参照)を取るために、外国の「ツロとシドンとの地方へ行かれた」(マタイ15章21節)のでした。同じ出来事を記しています「マルコ福音書」には「だれにも知られないように、家の中にはいられた」(同書7章24節)とあります。ゆっくりと休息し、また「父なる神様との交わり」に与ろうとされたのでしょう。ところが、「その地方出のカナンの女」がやって来たのでした(マタイ福音書15章22節~24節)。

 最初に「主よ、ダビデの子よ」(15章22節)とあります。「マルコ福音書」には「ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた」(同書3章8節)とありますように、外国の「ツロ」から多くの人々が「ガリラヤ」に来て、「ダビデの子よ」呼ばれた主イエス様が病人になさった癒しの奇跡を見て帰国しました。彼らが、その噂をほうぼうでしていたのでしょう。それ聞いていたカナンの女は、お忍びで来られていた主イエス様を探し当てて「主よ、ダビデの子よ」と叫びました。

しかし、主イエス様は、苦しむ娘を見るに見かねて来た母親に対して「無言」でした(15章23節前半)。苦しんでいる娘を何とかしてやりたい母親の気持ちを思うと、その態度には違和感を覚えます。聖書学者は「イエスは未だかつて、助けを求める者を拒んで帰れたことはない」と述べています。主が、あえて「沈黙」や「拒否」をされるのは、最も大切な「魂のお取り扱い」のためのものでした。私達も神様に助けて頂きたいのに、しばらく「沈黙」される時がありますが、それは信仰が成長するための「大切な時」なのです。

この時、お弟子たちも「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」と言って、軽くあしらいました(15章23節後半)。彼女にとっては「踏んだり、蹴ったり」でしたが、娘が癒されるためには諦めずに喰いついていきました。そしたら、主は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」(15章24節)と言われました。「失われた羊」とは、神様が豊かに祝福してくださる「神の国」に入る「契約(約束)」があるに、神様に背いて「失われている状態のユダヤ人たち」のことです。それでも、彼らは「唯一の真の神様」を信じていたのでした(ヤコブ書2章19節)。

一方、「ツロ」の町に住むこの「カナンの女」は、「唯おひとりの主なる神様」を知らず、木や石や金属で作ったいろいろな「偶像」を拝み、「この世の御利益だけ」を求めることに明け暮れ、「永遠の祝福(神の国)」とは無関係でした。この「カナンの女」に対して、主イエス様は「無言」、更に「拒否」で態度を示されました。

彼女は、掛け替えのない大切な娘の病苦を見るに見かねて、ツロの港町に来られた「主イエス様とご弟子達一行」を見つけて、「これ幸い」と娘の病気の癒しを願い出たのでした。でも、そのことは、彼女にとっては偶像礼拝の選択肢の一つ、御利益を求める「オプション」の一つだったのでしょう。そのことをご存じだった主イエス様は「無言」で無視され、更に彼女にはっきりと「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣わされていない。」と言われました。「あなたは、今、真の神様との契約の外にあるのですよ。あなたは、真の神様とは無関係の存在なのですよ。」(マタイ福音書15章24節)と諭したかったのでしょう。

主イエス様の「お言葉」に隠された、この「本当の意味」を悟ったカナンの女は、更に主イエス様に近寄って礼拝して「主よ、わたしをお助けください」(マタイ15章25節)と言いました。彼女は、娘の病気の苦しみを見かねて、主イエス様とお弟子たちの所に駆け込んだのでした。でも主イエス様に拒まれた今は、カナンの女自身が「ご利益のためには、何でも神様にする」節操のない「偶像礼拝」に汚れ、「真の神様とは切り離された失われた存在だった」と気付いたのです。それで、彼女は「主よ、わたしをお助けください」(15章25節)、「まず、(娘のことよりも)わたしをお助けください」と言いたかったのでしょう。言い換えますと「主よ、像礼拝にまみれ、罪と汚れに染まった私をまずお救いください」と言いたかったのでしょう。

 そんな彼女の「本心」を更に確かめるかのように、主イエス様は「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言われました(15章26節)。「パン」は勿論たとえで、「子供たち」は「失われた羊、救いの外にいるユダヤ人」のことです。この「パン」は、「ヨハネ福音書6章」に何回も出てきます、主イエス様が「わたしが命のパンである」とおっしゃる「命のパン」のことです。言い換えれば、「失われた羊のユダヤ人が、救われ、真の主なる神様との関係が回復して、正しい関係を結べる」「命のパン」のことです。

「主なる神様の契約の民」でありながら、「失われた羊」である「子供」の「ユダヤ人」を差し置いて、大切な「命のパン」を偶像礼拝に明け暮れ、「主イエス様」を「一つのオプション」、「一つの選択肢」としか考えない「あなた」に上げる訳にはいかない。「小犬にやってはいけない」と主イエス様はおっしゃったのでした。しかし、彼女は食い下がりました。「選ばれたユダヤ人」ではないけれども、なんとしても救われて恵みを頂きたい。それで、彼女は、心からへりくだり主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(15章27節)と言いました。言い換えますと「小犬も『救いに至るその命のパンくず』は頂きます。まず、わたしを真の神様の恵みを頂くためにお救いください」とカナンの女は、主イエス様にすがったのでした。

 そこで、主イエス様は、彼女の「救い」に与る本物の信仰を認められ、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」(15章28節)と言われました。主が「見上げたもの・・・立派だ(協会共同訳)」と言われたのですから、彼女の信仰は「本物」でした。「真の救い(主なる神様との関係の回復)」のためには一切をなげうち、ヘりくだって「命のパンのパンくず」を得ようとしたからです。

 その時、「娘の病気はいやされた」とあります。主イエス様に褒められたカナンの女は、その一途な求めによって「救い」を頂き、「娘の癒し」も頂きました。彼女の「熱心さ」もありましたが、大切なのは「神様との正しい関係」を頂く「いのちのパン」の「くず」を必死に求めたからです。それで大切な娘の癒しにも与れました。

                        2024年4月21日(日)伝道礼拝説教要旨 竹内紹一郎