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2024年6月2日聖日礼拝説教要

聖書箇所   ヨハネ福音書1章19節~34節       

          「洗礼者ヨハネの働き①」


「それ(聖霊)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」
(ヨハネ福音書16章13節)


「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である。」       
(ヨハネ福音書1章23節)


「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」
(Ⅰコリント書1章21節)


この「ヨハネ福音書」とは、別の観点で書かれている「マルコ福音書」には「ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。」(同書1章5節)とあります。それまで誰も知らない無名の「バプテスマのヨハネ」の所に「ユダヤの国の全土」と「エルサレムの住民全部」が集まり、「罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けた」と言うのですから、「一体、何が起こっているのか?」と、更に多くの人が集まりました。

また、人は「自分の弱さ」や「罪」を明らかにしたくありませんし、自分の間違いや罪を認めたくありません。でも、2000年前のヨルダン川にいる「洗礼者ヨハネ」の許には、何千人何万人もの人々がやって来て、多くの人々に囲まれているのに、恥も外聞もかなぐり捨てて、今まで犯して来た数々の罪を告白して、ヨハネからバプテスマを受けたのでした。

 そこには、「聖霊」の著しいお働きがあって、人は罪を告白せずにはおられない衝動にかられた多くの人々がいたのでした。私の家内の成子の祖母は、「京都看病婦産婆学校」で学び、学校の方針で「形ばかりの洗礼」を受けていたのですが、大正13年(1924年)に柘植不知人先生の説教を聞くうちに、「聖霊」によって罪をハッキリと示されて、「その罪を悔い改めて、もう一度洗礼を受けなければならない」と心に迫られた祖母は「2回目の洗礼」を受けました。

 「聖霊」が御言葉と共に働かれる時、「罪」が示され、その赦しと救いを求めます。この「ヨハネ福音書16章」にも「それ(聖霊)がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(同書16章13節)とあります。洗礼者ヨハネは、頑なで自分の義を誇り「自分は正しい」「絶対に間違っていない」と言う思いに満たされたユダヤ人たちにも、「自分は間違っている罪深い者だ」と知らせる「聖霊」によって、多くのユダヤ人が罪を自覚して告白し、悔い改めて洗礼を受けたのでした。

この不思議な「聖霊のお働き」によるリバイバルの噂は、ユダヤの国とエルサレムの都の何処ででも、世間の話題を独り占めにしていたに違いありません。そこでエルサレムの都の「最高議会(サンヘドリン)」から様子を伺う人達が遣わされて、開口一番「あなたはどなたですか」と尋ねたのでした(1章19節)。

 それに対して、洗礼者ヨハネが「わたしはキリストではない」と告白しました(1章20節)。当時のユダヤの国はローマ帝国の軍事力の前に、なす術もなくローマ帝国の支配下におかれ、ローマの属国になっていました。ユダヤ人は自国民を死刑することが出来ず、人々を裁く権利をローマに奪われてしまって、ローマ帝国の言いなりになっていたのでした。ですから、ユダヤの人々は、ローマ帝国に打ち勝つ「政治的な解放者」としての「メシヤ(ローマ帝国を打ち破る政治的キリスト)」の到来を待ち望んでいました。

 そこでエルサレムから遣わされた人々は、このヨハネが「政治的キリストかもしれない」と思ったり、キリストに先立ってエリヤが再来するという期待があったので(マラキ4章5節)、「あなたはエリヤですか」と尋ねましたが「いや、そうではない」と否定されました。また「あの預言者」(申命18章1518)ですかと尋ねられても、ヨハネは「いいえ」と答えたのでした。

 「子どものお使い」ではありませんので遣わされた人たちは当惑しました。けれども彼らは、エルサレムの都の「最高議会」(サンヘドリン)に持ち帰る「答」が必要でした(1章22節)。彼らの問いに対して、洗礼者ヨハネは「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」と答えました(1章23節)。これから来られる「キリスト」が通られる道を、真っすぐにする。でこぼこもなく、高低差もなく、真っすぐの道を用意して「キリスト」をお迎えする。そのための「声」だと言うのです。

私は、この「主の道をまっすぐにせよ」との御言葉で思い出したことがありました。それは今から50年前、私が19歳の時に京都市の堀川通を歩いていた時、一人の青年から一枚のビラを貰ったのでした。それは、当時、教会創立50周年を迎えていた「清和キリスト教会」に集う青年達が、教会創立50周年の記念行事として、青年達だけで「100日間、毎日伝道する」という「100日伝道」で、青年達が配ってくれた伝道集会の案内ビラでした。その案内ビラによって、私は生まれて初めて「キリスト教会」に導かれたのです。

 その青年は、私のために主イエス・キリスト様に至る「道」を、「まっすぐ」ではないにしても主イエスに至る「確かな道」を備えてくれました。見方を変えれば、主イエス様が私に会って下さる「確かな道」が備えられたのです。その「確かな道」が備えられたので、私は救い主イエス様を知り、そして信じて、50年後の今、山手教会の講壇に立って主イエス・キリスト様について語らせていただいています。でも、あの一人の青年が一枚のビラを渡してくれなければ、「主イエス様に至る道」そして「主イエス様が私に会って下さる道」は備えられませんでした。 

「主の道をまっすぐにせよ」は洗礼者ヨハネに語られた御言葉ですが、実は現代の私達にも語られているのではないでしょうか。主イエス様が「滅びに至る魂」に向かわれる道を「真っすぐにする」。それはまた「滅びに至る魂」が「主イエス様に至る道」でもあるのです。

今朝、「主の道をまっすぐにせよ」と主から語られている私たちが、知人、友人、ご家族に、主イエス様に至る「まっすぐな道」を備えてあげましょう。私達が、「その道」を備えなければ、主イエス様は「滅びにまっしぐらの大切な魂」に会っていただけないのです。

「コリント人への第一の手紙」の有名な御言葉には、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、(人から人への)宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」(Ⅰコリント書1章21節)とあります。生まれながらの人は、一人では「活ける真の神様」「救い主イエス様」に至ることが出来ません。誰かが「主イエス様に至る道」を備えてあげなければなりません。それは主イエス様を知らない方を教会までお連れすることです。伝道礼拝に、知人、友人、ご家族をお連れくださるだけで「道」が備えられ、主の通られる「まっすな道」が出来るのです。「主の道をまっすぐに」させていただきましょう。

           2024年6月2日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎