聖書箇所 ヨハネ福音書5章8節~18節
「もう罪を犯してはいけない」
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」
(詩篇46篇10節)
「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」
(ヨハネ福音書5章14節)
「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」
(ヨハネ福音書3章17,18節)
主イエス様が「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」(ヨハネ福音書5章9節)と力強く御言葉を宣言されると、38年間の長患いの人は「すぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」(5章9節後半)のですが、「その日は安息日であった」とあります(5章9節の最後)。
「安息日」は何もしないで休息する日です。有名な「十戒」の「第4戒」に「安息日(にち)を覚えて、これを聖とせよ。 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。…」(出エジプト記20章8節~11節)と命じられていたからです。
イスラエルの国では、今も一週間の「最後の日の土曜日」に「安息日」が守られています。それは、前日の金曜日の日没30分前から、翌日の土曜日の日没から30分後までのことです。
神様は、現代の私達にも「安息日」を備えてくださいました。それは、「第1」に「 労働から解かれて休む日」です。神様が明確に求めておられることは、私達が6日間は仕事をするが、7日目には仕事の手を止めて休むことです。「ワーカーホリック(仕事中毒の状態や人を指す言葉)」という言葉があります。休みがなければ心と身体の健康を損なって病気になったり、最悪の場合は「過労死」につながる場合もあります。神様は、私達に「安息日」を備えて、7日目には仕事の手を止めて休ませてくださいます。「休む」からこそ、次に「仕事が出来る」のです。これは神様の定めです。
「第2」は、私達に生命と全ての必要なものを与えてくださっている「神様を知るための日」です。私達は忙しくしていると、目の前のことに気を取られてしまって、神様のことを忘れることがあります。ですから、一週間に一度は静かにして、目に見えない「神様と出会う時」が必要です。御言葉にも「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩篇46篇10節)とあります。もし、この「安息日」の「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という教えがなければ、「ユダヤ教」も「キリスト教」もいつの間にか消えてしまったのではないかと思います。
「安息日」に関わる「第3」のことは、「他の人も神様を求める日となる」からです。世間の人々は私達クリスチャンが毎日曜日に教会に集い「神様を礼拝している姿」を見ておられます。礼拝に毎週来ることが「目に見えない真の神様を証して伝える」伝道の第一歩になっているのです。地道ですが、大切であり、無くてならない伝道になっています。
でも、2千年前のユダヤ人は、この重要な「安息日」の教えを「杓子定規」にとらえて、この日に物を運ぶことを禁じました(「緊急の出来事(事故や病気)」で床に人を乗せて運ぶのは許されるが、床だけを取り上げて運ぶのは労働とみなされ禁じられていた)。それで、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」(5章10節)と言ったのです。「安息日の戒め」を破ると「石打ちの刑(死刑)」にされますが(民数記15章32~36節)、癒された人は「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」とユダヤ人に答え、何とか処刑されずに済みました。彼は「なおして下さったかた」を知りませんでした(5章11~13節)。
その後、主イエス様がエルサレムの宮(神殿)の境内で癒された人に出会われました。それは、偶然にその人に出会われたのではなく、癒された人に「伝えておかなければならない最重要のこと」を語るために(5章14節参照)、彼を探して会われたのでした。
主は「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」と言われました(5章14節)。「もう罪を犯してはいけない」という言葉の中の「罪」とは、「安息日に床を取り上げた」罪でもなく、彼がおかしたかもしれない不道徳や犯罪まがいの行動のことでもありません。目の前におられる救い主イエス様を認めない、無視する、受け入れない「罪」です。
柘植先生が「新約聖書の富士山」といわれる「ヨハネ福音書3章16節」には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありますが、続く「ヨハネ福音書3章17,18節」の「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」との御言葉は、富士山に次ぐ高さを誇る南アルプスの「北岳」のように「新約聖書の最重要の御言葉」です。
私達の信仰生涯の「祝福」とその後の「永遠の祝福」は、神の独り子イエス様を信じるか拒むかで決まります。「ヨハネ福音書」で「罪」と言う時、神の独り子イエス様を拒むことを意味しています(16章9節参照)。
癒された人は、主イエス様から「もう罪を犯してはいけない」と聞いた直後、何と主イエスの事を「ユダヤ人たちに告げた(密告した、ちくった)」のでした。38年間の長患いを完全に癒していただいたのですが、彼は「恩を仇で返」しました。聖書は、彼の「その後の生涯」について何も語りませんが、彼の最低の対応に心が痛みます。
主イエス様の癒しや救いの恵みに与りながら、主を拒む信仰者は彼だけではありませんでした。 「近代キリスト教史」に出てくる金森通倫は同志社を卒業し、その神学校の校長でしたが、明治20年代の「新神学(聖書も福音も否定した神学)」にかぶれて救い主イエス様を拒みました。後に妻の小寿の召天で目が醒め、大正期に福音信仰を回復して救世軍に入隊。昭和期にはホーリネス教会に入会して「神・罪・救」の三綱領を説く「金森伝道」を展開しました。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」(哀歌3章22,23節)との御言葉は真実です。人々の信仰回復を祈って参りましょう。
2025年4月6日(日) 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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