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2025年4月13日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝3章1節~10節
       

        「主イエスの聖名の恵み」

「すべてのわざには時がある。・・・ 神のなされることは皆その時にかなって美しい。」
(伝道の書3章1節、11節)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ書43章4節[新改訳])

「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」              
(使徒3章6節)

「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」                 
(ヨハネ福音書14章13節~14節)


ユダヤ人哲学者マルチン・ブーバーの言葉に「人生は出会いで決まる」とあります。私たちは、人生で実に多くの出会いを経験してきました。出会いの中には嬉しい出会いと共に残念な出会いもあります。その「出会い」に続いて、私達の人生で「大事なこと」の一つは「時」です。「時」が来なければ、何事も起こりません。早くもなく遅くもなく、成就する「時」があります。「その時」に事は鮮やかに起こります(伝道の書3章1節、11節)。

今日の聖書箇所にも「時(神様の時)」が記されています。ガリラヤ湖の漁師で「無学な普通の人」であったペテロは、ペンテコステの日に「聖霊」に満たされ、「キリスト教会」を立ち上げ代表者となりました。彼は、同労者のヨハネと共に「午後三時の祈りのとき」神様の臨在される「宮(エルサレム神殿)」に上りました(使徒3章1節)。

当時のユダヤ人は、「1日3回(午前9時、正午、午後3時)」お祈りするのが「習慣」でした。ペテロもヨハネも当時の良き「習慣」に従い、「祈りの家」(マタイ福音書21章13節)また「父の家」(ルカ福音書2章49節)と呼ばれた「宮」に上ったのでした。私達も、先輩たちの「良き習慣(坊向久正師よりの「祈りて倦(うま)ざるべし」(エペソ書6章18節、根気よく祈り続けなさい[新共・協会共同訳]、忍耐の限りを尽くして祈りなさい[新改訳2017]」を引き継いで行きたいものです。この「祈りの習慣」は格別に尊いもので、「祈りの人」には必ず神様が「導き」をお与えになります。

 ですからペテロとヨハネが、午後3時に「宮」に上った丁度その時「生まれながら足のきかない男が、かかえられてきた」のでした(使徒3章2節)。それは、祈った人だけでなく、祈ることもできなくなるほど人生の苦難、問題に打ちひしがれている「他の人々」にも、「神様の導き」が伴い大いなる祝福をもたらします。

この時「祈りの人」ペテロとヨハネは、まず「彼をじっと見て」(3章4節)、目先のお金のことのみ関心がないこの男の人(3章3節後半)の「本当の必要は何なのだろう?」と心の中で考えたと思います。「本当の愛」とは、相手の「本当の必要」をしっかりと見出そうとします。主なる神様も、天よりその御目で私達を「じっと見つめて」(イザヤ書43章4節)、私達一人一人に「本当に必要なもの」を備えてくださいます。ある時は「即刻」備えてくださいます。ある時は、私達が整えられるまで、神様が長い時をお待ちになって、「神の時」が満ちた時に備えてくださいます。

 ペテロとヨハネがその男の人を「じっと見つめて」、彼の「最も必要なこと」が分かりました。それは目先の「金銀」ではなく、足が治って歩き回ることでした。その事を確信したペテロとヨハネは、「ナザレ人イエス・キリストの名」によって、男の人の「足の癒し」を宣言しました(3章5,6節)。すると足のきかない男の「足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、 踊りあがって立ち、歩き出し」完全に癒されたのでした(3章7,8節前半)。

「イエス・キリストの名」と言うのは単なる固有名詞ではなく、「イエス・キリスト」という御方の「実質」「実体」を意味しています。言い変えますと、「イエス・キリストの名によって」というのは、「イエス・キリスト御自身によって」という意味です。私達が、毎日お祈りする時に、「主イエス・キリスト様の聖名」によって祈りますが、それは「主イエス・キリスト様御自身によってお祈りしています」ということです。詳しく言いますと「主イエス様が共にいらっしゃって、私達の祈りを聞いて執り成して、父なる神様にお願いしていてくださる」と言うことです。その「祈り」は、神の御子イエス様の「執成しの祈り」となるので、父なる神様は聞いて「一番良い時(神の時)」に適えてくださるのです。

「ヨハネ福音書」には、この「祈り」についての御言葉が幾つもあります。「 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光を お受けになるためである。何事でも わたしの名によって願うならば、わたしは それをかなえてあげよう。」(同書14章13節~14節)とあり、「同書15章16節後半」「同書16章23節、24節」にも同様に「わたしの名によって、父なる神様に求めなさい」とあります。 

 この「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」との御言葉は、柘植不知人先生によって約1900年後に行われた呉聖会でも用いられ、足の不自由な人が癒されました(『ペンテコステの前後』旧版、225~226頁、13日週報参照)。「主イエス様の聖名によって(主イエス様によって)」祈ることの大切さを心に留めたいと思います。その祈りは「神様に聞かれている」のです。

その後、「足を癒された男」は、ペテロとヨハネと共に「宮」に入りました (3章8節後半、9節)。当時、この神殿境内は健常者(障害のない人)しか入れませんでしたが、彼は足が癒されたことを確信して喜び勇んで神殿境内に入りました。そして「神をさんびし・・・」(2回、8節・9節)たのでした。彼はペテロとヨハネにお礼を述べたと思いますが、彼らと共に足を癒やされた人は、主なる神様を讃美し、礼拝したのでした。

この姿を見た人々はみな「驚き怪しんだ」のでした。別の翻訳聖書では、「民衆は皆、・・・驚いて、卒倒しそうになった。」(協会共同訳)と翻訳しています(3章10節)。神様とその聖名に栄光を帰して、主を讃美して礼拝する人の姿こそ、多くの人々にインパクトを与え、この世の人々への「一番の証し」となるのです。

現代の私達も、彼らと同じ父なる神様を仰ぎ、同じ「主イエス様の聖名」を心から信じて祈っています。その祈りは答えられます。神様は、また「時」を支配しておられる御方です。私の長女は車の運転中、朝日の輝きで赤信号を見落としましたが、交差点に入る時が数秒間遅れたので(神様が数秒遅らせてくださったので)、大事故でありながらかすり傷で済みました。時を支配される主なる神様に信頼して、主の聖名によって祈りましょう。その祈りが成就される「時(神様の時)」を待ちましょう。主は、あなたの祈りに「神様の時」に答えてくださいます。

                  2025年4月13日(日)伝道礼拝説教要旨 竹内紹一郎