聖書箇所 ヨハネ福音書 5章19節~23節①
「聖書全体から学ぶ」
「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」
(申命記5章15節)
「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし・・・」
(エペソ書2章3~5節)
「天の父は、悪い者の上にも 良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」
(マタイ福音書5章45節)
前回、前々回の礼拝では、38年間の病苦の中にいた男の人に対して、主イエス様が「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われると、この男の人はすぐに癒やされ、床をとりあげて歩いて行った出来事から学びました(ヨハネ福音書5章1~15節)。後にユダヤ人たちは、主イエス様が安息日に癒やされた人に寝床を運ばせるという「労働」をさせ、「安息日の戒めを破った罪」で訴えたのでした(5章16節)。
その訴えに対して、主イエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(5章17節)と言われました。主は、「安息日」に「主なる神様が休まれるので、人間も休む」というユダヤ人の考えについて、それは不十分な考えで大事なことが欠落していると考えられたのでしょう。
確かに、「安息日」を規定した「出エジプト記20章」の「十戒の第4戒」では、「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(同記20章11節)とあり、「神様が七日目に休まれた」ので人間も「安息日」に休むことになります。
しかし主イエス様は、悪魔の試みに遭われた時に「申命記」の幾つもの御言葉で勝利された(「マタイ福音書4章4節」に記された御言葉は「申命記8章3節後半」からの引用等)ように、聖書をよく読んでおられました。勿論、その「申命記5章」に記された「十戒」の戒めも知っておられました。そこには「安息日」の規定について「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである」(同記5章15節)とあり、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から「導き出された(救い出された)」ことを覚えて、主なる神様を賛美し感謝し祈って礼拝する日が「安息日」であると記されています。「申命記」を愛読された主イエス様には、この事がハッキリと分かっておられたはずです。
現代の私達も仕事や家事等を休んで、新約時代の安息日(主イエス様が復活された日曜日)を守って礼拝を捧げています。私達もイスラエルの民と同様に、主なる神様に「救い出された」存在だからです。私達は、以前は「この世の君(支配者)」に騙され、罪と汚れに塗(まみ)れて「悪魔の奴隷、罪の奴隷」として生き、「生まれながらの怒りの子(別の翻訳聖書:生まれながら神の怒りを受けるべき者)」でした。最期は、永遠の暗黒を刈り取り滅びる者でしたが(エペソ書2章1~3節)、救い主イエス様を信じて、主と共に天上で座につかせて下さったのです(同書2章4~6節)。
ここで「天上で座につかせて下さった」とは大仰だと思いますが、山手教会でよく賛美する「福音讃美歌163番」には「絶えせず祈りて雲上の空気をすいつゝ歩むべし…」とあります。私達が真剣に祈っている時、「雲上の空気を吸う」という、「天上の空気を吸う恵み」に与っているのです。
このように、私達一人一人は、「空中の権を持つ君(2章2節:この世の君[悪魔])の支配」から救い出され、「天上の空気」を吸って、新たな力を与えられています。ですから、新約の時代の「安息日」であります日曜日の朝、皆で集まり「この救いの恵み」を覚えって、「救い主なる神様」を賛美し感謝し祈って、礼拝を捧げているのです。このことが、私達の礼拝の「最も大切なこと」であり、これを抜きにしては「安息日の礼拝」は成り立たないと、「申命記」に記された「十戒」は言っています。
主イエス様は「申命記」を愛読されましが、主がよく読まれた「もう一つの聖書」があります。それは、「自然界」です。海や山、空や大地、食物や花や農業の営み等です。主イエス様は、「自然界の営み」から導かれる「神様の御心」をしっかりと読み取っておられました。
私達の「活水の群」の創設者の柘植不知人先生が記された『ペンテコステの前後』にはこうあります。 柘植先生を教え導かれた恩師の「B.F.バックストン先生」は、柘植先生に対して、「旅行の時など、よくこんな話をしてくださいました。『この自然界は活ける神の聖書です。このすべての被造物は神の力と尊厳と愛を現しているのです。ですから私たちは黙示の聖書を読むとともに、この活ける聖書を通して教えられなければなりません』。このようにして、見えるところのものを指して聖書の真理を語ってくださったことは、私の信仰的な修養の大きな助けとなりました。」(『ペンテコステの前後』新版74頁)
ここで「自然界は活ける神の聖書」とあるのは、主イエス様が「自然界の営み」を通して多くの事をお弟子に教えられたからです。特に、今日の聖書箇所(ヨハネ福音書)との関連では、主イエス様は「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マタイ福音書5章45節)と言われ、目の前の「自然界の営み」を見て、天の父なる神様が自然界を統べ治め、コントロールしておられることを学んでおられました。
その「天の父」は、「安息日の土曜日」にも「太陽をのぼらせ」、また別の「安息日の土曜日」には「雨を降らしてくださる」御方です。「自然界の営み」という「第二の聖書」から学ばれた主イエス様は、ユダヤ人たちに向かって「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ福音書5章17節)と言われました。
主イエス様は聖書の一箇所だけを強調して、神様からの大切なメッセージを聞かないことは間違いであって、聖書全体から、また「第二の聖書」の「自然界の営み」から大切なメッセージを聞かせていただくことが大切であると示しておられるのです。
私達は、「聖書を信仰と生活の誤りなき規範」と信じ告白していますが、一部の聖書箇所に拘(こだわ)るのではなく、聖書全体から、また「第二の聖書」の「自然界の営み」から正しいメッセージを受け止めたいものです。 特に、私達にとって大切な「安息日」は、主イエス様が私達を「罪」と「この世の君(悪魔)」の支配から救い出して下さった「贖いの恵み」を心から賛美し、その主を礼拝する日であることを心に留めて参りましょう。
2025年4月27日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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