新約聖書 マルコ福音書7章31節~37節
「ひとりで主の前に立つ」
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
(伝道の書3章1節)
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」
(伝道の書3章11節)
「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」
(ヘブル書13章5節)
ガリラヤ地方を伝道しておられた当時の主イエス様の名声は広く行き渡っていましたが、人々からの信望の厚かった「洗礼者ヨハネ」の命を奪ったガリラヤの領主の「ヘロデ・アンテパス」は主イエス様の命を狙おうとしておりました(6章14―16節、ルカ福音書13章31―32節)。
そのことを知られた主イエス様は、外国の「ツロ」の港町に一時退かれ(7章24節)、さらに北へ約40kmのところにある港町「シドン」へ行かれました(7章31節の前半)。その後、主イエス様は、ガリラヤ地方の東側の「デカポリス地方」を通り抜けて相当の遠回りをされ、ガリラヤ湖の東側の地方に来られました。聖書学者は、「(主イエス様は、)常識では考えられないほどの遠回りをして、ひっそりと(デカポリス地方の)ガリラヤ湖畔に姿を現わ」されたと言いますが、そこにはもう一つ隠された「大きな理由」がありました。
主イエス様は、ある時、「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、あり得ない」(ルカ福音書13章33節)と言われ、この時ガリラヤ地方で「ヘロデ・アンテパス」に殺され、命を落とす事は出来ないと思われていたのでしょう。主は数年後、エルサレムで十字架に架かり、全ての人の罪の身代わりに死ぬという「御自分の大切な使命」を全うしようと固く決心されていたのでしょう。
私達信仰者にも「時」が備えられています。何事も「時」があり、その「時」を見定めることは大切です。「伝道の書」には、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(伝道の書私達の人生にも、「定められた神の時」があることを弁(わきま)えて、その「時」を逃さず、神様にお従いできるように「御言葉と祈り」を絶やさないようにしましょう。
「デカポリスの地方」というのは偶像礼拝が盛んで悪霊が働く「異邦人・外国人の住んでいる所」でした。そこで人々は、耳が聞こえず、口のきけない「聾唖(ろうあ)の人」を主の許に連れてきて、この人に手を置いて下さいと願い出たのでした。それは、以前に主イエス様によって癒された「悪霊に取りつかれた人」が、主が自分にしてくださったことを悉(ことごと)く、このデカポリス地方で言い広めていたためでした(マルコ福音書5章1~20節)。それで、主が再びこの地方に来られた時に、人々はすぐにこの「聾唖(ろうあ)の人」を連れて来ました。
この人は、主イエス様の噂を聞くこともなく何も知りませんでした。また、「助けてください」と言えず完全に音の断たれた世界に生きていました。周りの人々は「聾唖の人」を可哀そうに思い、主の許に連れて来たのでした。私達も多くの場合は、他の人が教会に連れて来てくれたのではないでしょうか。ある牧師は、「問題を抱えて悩んでいる人は今も多い。・・・私達も、問題を抱えて悩んでいる人をイエスのもとに連れて行く、橋渡しになるように心がけよう。」と言われます。
主イエス様は、この「聾唖の人」を「彼ひとり」にされました(7章33節)。その理由は、彼が主イエス様を個人的に「キリスト」「力強い全能の救い主」として信じるためでした。耳も口もきけない人ですから、主が「一言おっしゃって」癒されても聞こえないので、「誰が癒してくださったのか」「誰が真の救い主なのか」分からず、「救い主イエス・キリスト様」への信仰が芽生え育つこともなかったでしょう。ですから主は、この「聾唖の人」を「彼ひとり」で御自分の前に立たせなさいました。
神様は時々、私達を一人にさせなさることがあります。それは、「あなた一人」に主イエス様が関心を持たれ、「あなた一人」にご自身を現して、あなたの「信仰を強め」、「励まし」、「成長させたい」と願っておられるからです。そして主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」(ヘブル書13章5節)と言われます。
主イエス様は、この時「御言葉」が聞こえない、この耳の不自由な人の両耳に、「これから、あなたの耳が聞こえるようにしてあげよう」というメッセージを込めて、御自分の指を差し入れられました。「口のきけない」その口には、「唾(つばき)」を付けて「舌を潤され」、そのところを主が癒されると知らされました(マルコ福音書7章33節)。主はよく「唾」を用いて人を癒されましたが(8章23節、ヨハネ福音書9章6節)、私達も昔、親などが「唾」を傷口に付けて応急処置をしてくれたことを思い出します。
続いて主は天を仰がれ、「天の父なる神様から」の癒しであることを示し、更に「うめく」と同じ意味の「ため息」をつかれました。それは、聖霊が「切なるうめきをもって」(ローマ書8章26節)、私達のために執成してくださるのと同様に、主もこの「聾唖の人」の「苦しみ」「痛み」を知って、父なる神様に「うめき」ながら癒しを求めて祈られたのでした。
最後に、主は「エパタ (聞けよ)」を宣言されました(7章34節)。その印象深いアラム語の「力ある御言葉」によって「聾唖の人」の耳は聞こえるようになり、口は「はっきりと話せる」ようになり完全に癒されたのでした
(7章35節)。
同時に「聾唖の人」は、⑴耳に指を差し入れ、⑵唾を舌に付けて潤し、⑶天を仰いで ⑷力強い御言葉で「エパタ(開け)」と宣言されたこの御方こそ「真の救い主」「真の神様」と分かって、主イエス様を信じたことでしょう。
「ひとりになる」ことは一面辛いことですが、その時に主があなたに恵みを与えて下さいます。孤独を感じる時にこそ、主に祈り、主の御言葉を読み、信仰をもって受け留めましょう。そこに御業が顕れます。
2025年7月20日(日)伝道礼拝説教要 竹内紹一郎
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