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2025年7月27日礼拝説教要旨

聖書箇所 ヨハネ福音書5章41節~47節②      


             「ただひとりの神からの誉」


「互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。」
(ヨハネ福音書5章44~47節)


「何よりもまず、神の国(神の御支配)と神の義(神との正しい関係)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(毎日の生活に必要なもの、そして永遠の命)はみな加えて与えられる。」           
(マタイ福音書6章33節[新共同訳])

前回は、有名な「新聖歌231番(讃美歌271番)」「いさおなきわれを血をもて贖い イエス招き給う 御許にわれ行く」を作詞した讃美歌作詞家シャーロット・エリオットのことをお話ししました。彼女は資産家の家に生まれ、若い頃は肖像画家として優れた腕を持ち、ユーモアあふれた詩を書いて人生を楽しんでいました。しかし30歳の頃から全身が麻痺する病気で病床に伏し絶望の中で毎日を過ごすようになりました。

そのシャーロットの所に来たスイスのリバイバル運動の中心人物マラン牧師が「だれでも痛みはありますが、神様はその人が耐えられる苦難だけを与えられます。そして、その苦難に勝利した人を用いられるのです。神様は今、弱くて何もできないあなたのそのままの姿を求めておられるのです。…あなたは、ありのままの姿であなたの罪を赦したもう主イエスのもとに行きなさい。」と勧めました。

この言葉は、シャーロットの魂の奥底に深く染み込み、全身麻痺の「ありのままの姿」で主イエス様を仰ぎ、神様に愛されている自分を見出して神様からの平安を得ました。

その後、シャーロットが貧しい牧師の子弟の学校を作るために何も出来ないことで苦悩していた時にも、マラン牧師の「あなたのありのままの姿で 主イエスのもとに行きなさい」という言葉が心に浮かび、この言葉をテーマにして賛美歌を書きました。それが「いさおなきわれを血をもて贖い、イエス招きたもう、御許にわれ行く」(新聖歌231番)です。この讃美歌は世界中で最も愛されている賛美歌の一つとなりました。シャーロットが、「私のありのままの姿で」主なる神様にお会いした「体験」と「証」のゆえに、この賛美歌で多くの人々が主を崇めさせていただけるのでしょう。

シャーロットはこの賛美歌一編で得られた「印税」で貧しい牧師の子弟の学校を作るために貢献しました。でもそれ以上に、主イエス様に見出された「魂の幸い」とそこに至る「道筋」である「ありのままの姿で」を全世界の人々に証し続けているのです。彼女には「誉」「賞賛」「権威」など何の関わりもありませんでしたが、「ありのままの姿で」主イエス様が十字架で流された尊い血潮を崇める信仰によって主の許に行き、「永遠の命(永遠の祝福)」に与ったのでした。

一方ユダヤ人たちは、目の前に主イエス様がおられ「聖書は、わたしについてあかしをするもの」と言われるのに主の許に来ようとしませんでした(5章39,40節)。それは、神様を抜きにして人からの「誉(ほまれ)」を受けることに躍起になっていたからです。そこで、主は「あなたがたは、人間同士の栄誉を受けることにしか関心が無く、唯一の神様からの栄誉を求めようとしないのですから、神様から遣わされて来たわたしを信じることができないのは当り前のことです」(ヨハネ福音書5章44節[現代訳])と言われました。

 人からの「評価」「栄誉」を求めても、神様からの「評価」「栄誉」を求めず関心もないなら「永遠の命」を与えて下さる主イエス様とは関係がなくなります。この世には立派な方が多くおられますが、この世を去り主なる神様の前に出る時、その「名誉」と「富」と「権力」は持っていくことが出来ません。

主の許にもっていけるのは、シャーロットが「いさおなきわれを血をもて贖い、イエス招きたもう、御許にわれ行く」と歌ったように、主の血潮によって清められ贖い取られた「魂」だけです。「名誉」も「富」も「権力」も主なる神様の許には持って行けません。

主イエス様の前に来ていながら、ユダヤ人が「永遠の命」を得ることが出来ないもう一つは「訳(理由)」が続いて記されています(5章45~47節)。それは、「モーセ」と言う人物の名前で記された「モーセの律法」です。主イエス様は「わたしがあなたがたを不信仰者として天のお父様に訴えるのだと思っているかもしれませんが、実はそうではありません。あなたがたを不信仰者として訴えるのは、わたしなのではなく、あなたがたが頼みにしているモーセです」(ヨハネ福音書5章45節[現代訳])と言われます。

 ユダヤ人は、神様から授かった「モーセの律法」を誇りにしていました。その「律法」を守っていると思い込んでいました。でも、それは「思い込み」で、実際は「守れていなかった」のでした。主イエス様から「互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしない」と言われている程に、彼らは主なる神様を蔑(ないがし)ろにして、この世の人々の評価や賞賛や尊敬を一身に受けようと躍起になっている程度の人々でした。

 モーセの律法は、「永遠のいのち」を与えることはできません。それは、「人に、ただ罪を示すことができるだけのもの」(ローマ書3章20節)なのです。その代わりに「律法」は、「永遠のいのち」を与える主イエス様のことを「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。」(申命記18章18節)と記していました。

 主なる神様の御宣言が「モーセの律法」の、この「申命記」の御言葉にありますので、主は「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」(5章46節、47節)とハッキリと言われたのです。ユダヤ人が誇りとし、それを守って自分を「正しい者」としていた「モーセの律法」は、実は「自分たちが罪深い罪人」であること教え、更にその罪からの救い主であり「永遠の命」を与えてくださる主イエス様を指し示すものだったのです。

現代の私達もこの世のものに支配され、人々の「評価」や「誉」を求めて齷齪(あくせく)しているかもしれませんが、大切なのは「ただひとりの神からの誉(栄誉)」です。神様を何よりも第一にしているなら、大事な物や必要なものは必ず備えられます。ですから主は「何よりもまず、神の国(神の御支配)と神の義(神との正しい関係)を求めなさい。そうすれば、これらのもの(毎日の生活に必要なもの、そして永遠の命)はみな加えて与えられる。」(マタイ福音書6章33節[新共同訳])と仰います。

                        2025年7月27日(日) 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎