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2025年8月3日礼拝説教要旨

聖書箇所 ヨハネ福音書6章1節~14節①  

        「栄光の富を信じて、祈らせてください」 

「イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、『どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか』。これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。すると、ピリポはイエスに答えた、『二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい』。」              
(ヨハネ福音書6章5~7節)

「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」     
(ピリピ書4章19節[新共同訳])

 

 主イエス様は、その「テベリア湖」の周辺の町々村々でも伝道されて数多くの人々の病を癒しておられました (6章2節)。そこで病み苦しむ多くの大勢の群衆が、主イエス様とお弟子たちの一行の後を追ったのでした。

今日の週報に折り込みましたプリント「100年前の主の御業」は、今から100年程前に現在の中国東北部の遼寧省にあります「大連」や「旅順」で、柘植不知人先生によって行われた海外伝道の記録です。2千年前とは違い100年程前の記録ですが、多くの人々が「主イエス様の聖名によって、柘植先生がお祈りされる神癒の祈り」で完全に癒されました。ですから多くの人々が集まり、柘植先生を追いかけました。

柘植先生は「日本のリバイバルは神癒からですよ」と言っておられたそうです。山手教会も、坊向久正先生が大正15年(1926年)に病気の川本操さんのために「大声をあげ、どんどん祈られ」完全に癒されたので伝道が始まり、この地に山手教会が建てられました。私の母教会の清和基督教会も大正13年(1924年)7月15日から15日間、柘植先生が天幕伝道をされ、救われた者と癒やされた者が実に300名ありました。そこに出来た教会に遣われたのが初代牧師の西條弥市郎先生と当時は伝道師だった坊向久正先生でした。このように多くの「活水の群」の教会は「神様の癒やしの御業」から生み出されてきました。

2千年前も多くの人々が主イエス様によって病気を癒して頂いたので、主イエス様について来たのでした。それは「男の数は五千人」(6章10節)とあります。女性と子どもを含めますと優に1万人以上がゾロゾロと主イエス様とお弟子たちの後を追ったのでした。

実はこの頃、イエス様もお弟子たちも「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」(マルコ福音書6章31節後半)と記されていまして、イエス様とお弟子たちは「山に登って」一休されました(6章3節)。時は「過越」の祭が近づく春先の頃で、聖書学者は「AD29年の春」の事としています。主イエス様御自身が「世の罪を取り除く神の小羊」として全人類の犯した罪を取り除くために十字架上で死に渡されなさった丁度1年前の出来事でした。

主イエス様はこの時、大事なことを弟子たちや人々に教えようとされ、弟子のピリポに「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と尋ねられました(6章6節)。お弟子たちが神様を信頼する信仰を試されたのです。

 この時お弟子たちは、主イエス様が「優に1万人を超える人々」の夕食のことまで心を砕いておられることが分からず、目の前に「全知全能の神の子」イエス様を見ていても、人々の肉体の必要を満たされるお方だとは信じていなかったのでした。

 そこで主イエス様はピリポに「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と尋ねられましたが、「ピリポをためそうとして」言われたのでした(6章6節)。彼は、今1万人がいるこの小高い山にほどちかい「ベツサイダ村」の出身者でしたから、どの家に行けば余分なパンがあるか良く知っていました。更にピリポはめっぽう数字に強い人だったようです。彼は、即座に人々の夕食を用意するための費用を計算して必要な金額をはじき出すことが出来ました。

その答えが「二百デナリ」でした。当時の成人男子の日当(一日の賃金)の「1デナリ」が1万円とすると200万円になります。1万人の人々がいて一人200円のパンを食べると200万円ですから、ピリポの計算は当たっています。しかしピリポは、自分の目の前におられる御方が人々の肉体的な必要(食べるため、生きるための必要)も満たされる方だと考えませんでした。でも、この後「みんなの者は食べて満腹した」(マタイ福音書14章20節他)のでした。ですから「ピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった」(6章6節)のでした。

私は受洗して50年になりますが、「人間の考え」と「神様の考え」は違うことを幾つも経験しました。一例として、この「5千人の給食の記事」を読むと思い出すことがあります。

25年間、牧師として仕えた「深谷西島教会」のことです(週報折込プリント参照)。先代の牧師夫人の奥田さかゑ先生は、戦前、山手教会で坊向久正先生から「祈りの訓練」を受けられました。お連れ合いの奥田幸三先生を天に送った後、寂れた教会を守り、「次の牧師が来るまでここを守るのが私の使命」といって一人暮らしを続けておられましたが、1997年の夏の暑さに倒れ教会は閉鎖状態になりました。その教会に残された老信徒の要請で赴任したのが私達一家でした。

 閉鎖寸前の深谷西島教会の再建のためには、「借地」を買い取り建物を建てることに取り組みました。でも深谷西島教会は、私と妻の成子と当時小学校6年生の娘の真理と80歳代と70代の信徒さんと奥田さかゑ先生の6名が正式な教会員でした。その6名で総額5千数百万円の事業に取みました。

日本全国の日本キリスト教団の教会と「活水の群」の教会とその主だった信徒の方々に募金をお願いする募金趣意書を送りましたら「教会再建、土地買い取り、建物建設」に賛同して下さった教会と信徒さんから、毎週毎週、郵便振替で何十万円も送金がありました。ある週は百何十万円も募金が集まりました。まさに募金が湧き出すように郵便局の口座に溢れて、約110坪の借地を買い取ってその上にプリントの写真にあります新礼拝堂兼牧師館が建ったのでした。掛った費用の総額5千数百万でした。その5千数百万円の必要が全て満たされたのは「次の牧師が来るまでここを守るのが私の使命」といって一人暮らしを続けて、祈りに祈ってくださった奥田さかゑ先生が召されて告別式が執り行われた日でした。

プリントにある神学生が聖書の二匹の魚と五つのパンの奇跡から「人間の目から見て不可能と思われることも、神様の祝福があれば可能なのです」と言われたように、主イエス様が5つのパンを割いて、割いて、割き続けて約1万人が満腹したように、多くの信仰者の献身の表れで郵便局の口座が溢れて、祈りの人である奥田さかゑ先生の告別式の日に全てが満たされました。

「ピリピ人への手紙」には「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(ピリピ書4章19節[新共同訳])とありますように、主なる神様はあなたの「切実な必要」を必ず満たしてくださいます。まず祈り、祈り続けましょう。              
                         2025年8月3日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎