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2025年8月10日礼拝説教要旨

              「人をさばくな」

坊向 輝國


『人をさばくな、自分がさばかれないためである。あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう』。
(マタイ福音書7章1節)



ここでイエスは『人をさばくな』と言っておられますが、それは審きは神の領分で、神がなさることだからです。ですからどんな人でも、決して人を審くことができないのです。それはみな罪人だからです。それだのに、なぜ人は審くのでしょうか。それは自分は正しいと思っているからです。

ヨハネ福音書8章には姦淫の場で捕らえられた女性がイエスのところに連れて来られた記事があります。彼らはイエスを訴える口実を得るためですが、イエスから『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』と言われたとき、誰もこの女性に石を投げつける者はありませんでした。そして、『これを聞くと、年寄りから始めて、ひとりびとり出て行った』とあります。つまり誰もこの女性を審くことができなかったのです。それは、この女性のような罪は犯していなかっても、自分たちはみな罪人であることに気がついたからです。

そうです。人間はみな罪人なのです。ですから罪人が罪人を審くことはできません。ギリシャの哲学者でソクラテスという人が「汝、自らを知れ」と言ったことは有名ですが、自分自身のほんとうの姿を知ることが人間として大切なことです。またそこから全てがはじまるのです。また、自分のほんとうの姿を知った人は他人のことをとやかく言うことはいたしません。

あるところに、近所でも大変評判のいい円満なクリスチャンの家庭がありました。三世代が同居しているのですが、その家庭で争いが起った試しがありませんでした。そこである日、近所の人が「どうしてお宅はそんなに仲がいいのですか」と聞きましたら、お婆さんが「うちはみな罪人だからです」と答えましたが、近所の人にはその訳が分かりませんでした。

それを見たお婆さんは、「この前もこんなことがありました。息子が真夜中に帰宅したが、玄関の上がりかまちに置いてあったヤカンをひっくり返して、そこらじゅう水浸しになり大騒ぎになりました。そんなとき普通の家庭なら、「誰がこんなところにヤカンを置いて危ないではないか」と怒鳴ります。すると奥様が出てきて「もっと早く帰ってきたらいいでしょう。いつもいつも午前様になって、待っている者の身になったらどうです…」とやり返します。そして大喧嘩になるところです。

ところがうちでは、お婆さんが真っ先に出てきて、「わたしが悪かった、さっき便所に行くときにヤカンがあるのを見つけたので、危ないから帰りに片づけようとおもっていたのにすっかり忘れてしまって…」と謝ります。すると奥様が出てきて「それを置き忘れたのはわたしです。お怪我はありませんでしたか」と、これまた謝りました。すると主人が「いや、悪いのはわたしだ、遅くなって帰って来たので、電気を付けて皆を起こしたらいけないと、横着をしたから、こんなことになってしまった」と、これまた謝るのです。ですから喧嘩にならないというのです。この家庭はみんな自分が罪人だと認めているので、人を審かないから平和なのです。

 ある人がこんな話をしていました。人は誰でも長い物差しと短い物差と二本の物差しを持っていて、それを上手に使い分けているというのです。そして他人を量るときには短い物差しを出してきて「あの人はこんなに出ている」と量り、自分に対しては長い物差しを出して「まだこんなに余裕がある」と量るのです。そしてその人は「他人を量るときは長い物差しを、また自分を量るときは短い物差しで量りなさい」と話していました。

 つまり、他人に対しては寛大に、また自分のことには厳しくあるということです。ところが多くの場合は「他人に対しては厳しく、自分のことには寛大に」臨んでいます。どうぞ自分のほんとうの姿を知れば、人を審くようなことはありません。

コロサイ書3章13節に『互いに忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、赦し合いなさい。主もあなたがたを赦してくださったのだから、そのようにあなたがたも赦し合いなさい』とあります。他人のしたことを責めるより赦すことのほうが大切です。その根拠は「主もまたあなたがたを赦してくださったから」です。

 つまり自分の罪が赦された人が、他人のことをとやかく言う資格はありません。そしてわたしたちはイエスの十字架の贖いによって赦された者ですから、他人のことをとやかく言う資格はありません。

 マタイ福音書18章21節以下に、王から一万タラントの夫妻を赦された人のことが書いてあります。この人は莫大な負債を払いきれなくなり、家族が奴隷に売られようとしたとき、王に哀願したので、哀れに思った王は1万タラントの負債を全部赦してくれたのです。ところが、その人が帰る道中で百デナリを貸していた人に出会ったので「借金を返せ」と迫ったというのです。彼はいま1万タラントの借金を赦されたばかりなのに、僅か百デナリの借金を赦さなかったのです。

これは決して他人のことではなく、わたしたちのことを言っているのです。わたしたちは『払いきれないほどの大きな罪を、イエスの十字架の贖いにより赦されたにもかかわらず、他人の罪をゆるされないとは、一体どういうことでしょうか。神様から赦された者は人の罪を審く資格はないのです。

それよりも、赦された者はどこまでも赦すことを求められているのです。『ペテロがイエスのもとに来て言った、「主よ、兄弟たちが私に対して罪を犯した場合、幾たび赦さねばなりませんか。七たびまでですか。イエスは彼に行った、「わたしは七たびとは言わない、七たびを七十倍するまでにしなさい。」」 

ここでペテロが「七たびまで」と言ったのは、パリサイ人は「三度まで赦せ」と言われていたので、少し多めに言ったに過ぎないのです。それに対してイエスは「七たびを七十倍するまで赦せ」と言われましたが、これは7×70で490倍赦せと言われたのではありません。つまり「相手が悔い改めるならどこまでも赦せ」ということです。ここにイエスの寛大な愛があるのです。

わたしたちは赦された者として人を赦すことはしても、人を審くことをしないようにしたいものです。

箴言26章20節に『たきぎがなければ火は消え、人のよしあしを言う者がなければ争いはやむ』とありますが、争いが起こる原因のひとつは、人のよしあしを言ったり、人のことを告げ口をして、火の中に薪をくべる人があるからです。薪をくべなければ火は自然と消えるものです。

創世記に登場するヨセフは何故、兄たちによってエジプトに奴隷として売られたのでしょうか。それは彼が兄たちのしている悪いことをいちいち父に告げ口をしたから憎まれたのです。