聖書箇所 マルコ福音書14章3節~9節
「愛によって働く信仰」②
「この女(マリヤ)はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」
(マルコ福音書14章8節、9節)
「尊(たっと)
いのは、愛によって働く信仰だけである。」
(ガラテヤ書5章6節)
前回は、「ヨハネ福音書6章前半」にあります「5千人の給食」の記事から、「愛によって働く信仰」について導かれました。自分の粗末な「5つのパンと2匹のさかな」のお弁当を周りの「空腹になってひもじい思いをしている人々ために分けてください」と捧げた少年の「愛によって働く信仰」によって、男だけでも5千人、女性と子供を含めると優に1万人の人々が満腹したことを学びました。
同じく19世紀半ばの「イタリヤ統一戦争」の犠牲となって、負傷した兵士たちが放置されて呻(うめ)き苦しむ姿を見過ごすことが出来ず、敵・味方の区別なく手当をした「アンリ・デュナンさん」が始めた「赤十字社」の働きは、戦時だけでなく、現代においては全世界を包む愛の活動体となっています。
今日は、人々への愛だけでなく神様への愛、救い主イエス様への「真実な愛」をもって信仰生活をした一人の女性の姿から「愛によって働く信仰の尊さ」を学びます。
今日の聖書箇所の冒頭の「ベタニヤ」(マルコ福音書14章3節)は、エルサレムの都に入る直前の村の一つですが、住人のマルタとマリヤの兄弟で、病気で亡くなり既に墓の中で4日も経って臭いもするラザロの遺体に対して、主イエス様が「ラザロよ、出てきなさい」(ヨハネ福音書11章43節)と仰ったところ、死後4日も経っていた人が生き返り墓から出て来ました。マルタとマリヤは掛け替えのない兄弟を死別という「最大の悲しみ」の中から取り戻して頂いたのでした。
その後、主イエス様とお弟子たちは、この村に立ち寄るとマルタとマリヤとラザロの兄弟だけでなく、村の人々全てに歓迎され「夕食の用意がされ」ました(ヨハネ福音書12章2節)。その席上で、一人の女性(マリヤ:ヨハネ福音書12章3節)が主イエス様に「ナルドの香油」を注いだのでした。
彼女は、ヒマラヤ産の「ナルド」と言う食物の根から取り出した「香料」を含む、「300デナリ(成人男子の年収)以上にでも売」(マルコ福音書14章5節)れる「非常に高価な香油」1リトラ(326グラム)を壺に入れて持っていましたが、それを壊して主イエス様の頭に一度に注ぎ切りました。夕食の用意がされていた部屋は「ナルドの香油」の香りで一杯になり、主イエス様は頭から足の先までの全身、香油塗(まみ)れになられたのでした。これは当時のユダヤの国の来客の歓迎の所作(ルカ福音書7章46節、詩篇23篇5節)とは違い、明らかに別の事を考えてなされました。
マリヤと言えば、主イエス様のそば近くで、その御言葉を一言も漏らさず聞き取ろうとした女性として有名です。その姿を「ルカ福音書10章」では、「この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。」(同書10章39節)とあり、主イエス様は、そのマリヤのことについて「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(同書10章42節)と言われました。
ですからマリヤは、弟子たちが聞き流していた「主のエルサレムでの受難と復活の予告の御言葉」(マルコ福音書8章31節、9章31節、10章33,34節)もしっかり聞いて心に留めていたに違いありません。主は「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子(イエス様)は 祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は 三日の後によみがえるであろう」(マルコ福音書10章33,34節)と予告されていたのでした。
そのような中でマリヤは、主が十字架に架かられる数日前に「非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた 」(14章3節)のでした。それは「葬りの用意」(14章8節)でした。
しかし、周りの人たちは何の理解もしませんでした。主イエス様が3度も「十字架の受難と復活」を予告されていたのに、そんな大事な事をしっかり聞いていなかったお弟子たちは、マリヤが主イエス様を愛して「葬りの用意のために」おこなった「ナルドの香油注ぎ」を徹底的に批判し「厳しくとがめた」のでした(14章4、5節)。主の御言葉を傍近くで、しっかり聞かないことが、どれだけ愚かなことになるかを思い知らされます。
そこで、主イエス様は、御自分を愛して最善を尽くしてくれたマリヤのため「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。・・・ わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」(14章6節~8節)と彼女を擁護し、その真相を明らかにされたのでした。
人々に理解されなくても、主イエス様は理解し褒めて下さいました。マリヤの「愛によって働く信仰の尊さ」を覚えます。それだけでなく、主は「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」と続けられました。実際、今日もこの礼拝で「マリヤ」のことを語らせて頂きました。また有名な讃美歌391番「ナルドの壺ならねど」や新聖歌386番「ナルドの香油」でも賛美されています。主イエス様の仰る通り、マリヤの主イエス様への愛と献身は 「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、・・・記念として語られ」ているのです。私達は、 「愛によって働く信仰」の尊さを、今朝もう一度、しっかり心に留めたいと思います。
私達にとって主を愛する「愛によって働く信仰」とは何でしょうか。私がその事を思う時に「一つの讃美歌」を思い出します。それは讃美歌332番「主はいのちを」(新聖歌「102番」)です。その歌詞にこうあります。「⑴主はいのちを
あたえませり、主は血しおを ながしませり、その死によりてぞ われは生きぬ、われ何をなして 主にむくいし ⑵主は御父(みちち)の もとをはなれ、わびしき世に 住みたまえり。 かくもわがために さかえをすつ、われは主のために なにをすてし ⑶主はゆるしと
いつくしみと すくいをもて くだりませり。ゆたけきたまもの 身にぞあまる、ただ身とたまとを 献げまつらん」。
私達のため、いえ「私のため」「あなたのため」「命を与え・・・血潮を流された」主イエス様に対して、私達は何をもって報いましょう。立派なことは出来ません。でも「主を愛し、主に感謝する信仰」「愛によって働く信仰」によって出来ることを、主のためにさせていただきましょう。
2025年8月31日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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