聖書箇所 マルコ福音書9章1節~8節
「主と共に この世へ」
「これはわたしの愛する子である。これに聞け」
(マルコ福音書9章8節)
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」
(マタイ福音書28章20節)
「6日の後」主イエス様は、お弟子達の一部を連れて「高い山」に登られました(マルコ福音書9章2節)。「山」は「祈りの山」のことです(ルカ福音書9章28節)。主イエス様は、父なる神様に「特別の課題」について祈るために、「祈りの山」に登られました。それは「ヘルモン山」と考えられています。
32年前、3週間のイスラエルの聖地研修旅行の途上に「ヘルモン山」中腹まで、バスで登ったことがありました。その時に見た山中の渓流は、春先は雪解け水となって流れ下りヨルダン川が一杯になり溢れそうになる(ヨシュア記3章15節[新共同訳])源流でした。また、「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」(詩篇42篇1節)の御言葉を思いました。
私達はいつでも、どこででも神様に祈ることが出来ます。しかし、特別な祈り、大きな問題を抱え、何としても解決が欲しいと思う時は、「特別な場所」と、「特別な時」を取って、続いて神様に祈る事が大切です。数年前、娘の事で大変困難なことがあり、真っ暗のこの礼拝堂で祈り続けたことを思い出します。主はその祈りに答えてくださり、事なきを得ました。
主イエス様も、重大な事柄のため「高い山」に昇られ祈られたのでした。その時ペテロとヤコブとヨハネだけを連れられました(マルコ福音書9章2節)。この人選は他の箇所や他の福音書にもあります(マルコ5:37、マタイ26:33他)。犯罪の認定に「2人または3人」の証言が必要なように(申命記19章15節)、主イエス様のお言葉や奇跡の御業に関しても「二人ないし三人の証人の証言」が必要だからでしょう。また、お弟子の中には政治的関心が高く、主を「地上の王様」に祭上げ、十字架の道から外れさせようとする者もいたからと思われます(ヨハネ福音書6章14,15節、マルコ福音書9章9節)。
この3人だけが目撃した出来事とは、「イエスの姿が変」(9章2節~3節)ったことです。他の福音書の並行記事では「祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。」(ルカ福音書9章29節)とあり、「その顔は日(太陽)のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ福音書17章2節)とあります。ですから、「主イエス様の変貌」ではなく、主が祈っておられると、「本来持っておられる神の独り子としての栄光の姿に戻られ」、正体が現れたのです。
ベツレヘムで生まれ、ナザレでお育ちになった主イエス様は、私達人類の罪を償うために、「天上の栄光」を投げ捨て、人の姿をして地上に現れなさいました。それが、全世界でお祝いするクリスマスです。その主イエス様が本来持っておられた「天上の栄光の姿」が、お祈りされているうちに露わにされたのでした。
さらに、旧約時代の代表のモーセとエリヤが現れ、「栄光の姿に戻られた主イエス様」と語り合っていました(マルコ福音書9章4節)。その内容は、「栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のこと」 (ルカ福音書9章31節)でした。主イエス様も、復活したモーセやエリヤなどの天上の人々も、最大の関心事は全ての人々の救いをもたらす「十字架の贖い」が全うされることでした。
ところが、この大事な話し合いに、ペテロが出しゃばって口を出しました。ペテロは、「目の前の栄光に輝く主イエス様」と、モーセとエリヤに対して「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」と言いました。そして、この状態がずーっと続き、この3人がここにいてくださるように、「わたしたちは小屋を三つ建てましょう」と申し出たのでした(マルコ福音書9章5節)。
このペテロの気持ちは信仰者として理解できます。詩篇に「万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」(詩篇84編3節~4節、10節)とあります。真の神様を信じる信仰者として、神様の臨在される「神の家」で主の臨在に触れるのは何よりの喜びです。私達の先輩の信仰者も、「『臨在』は救いなり、『臨在』は癒しなり」と教えられます。神様の「臨在」に触れる時に真の「救い」があり、全ての「患いから癒される」のです。ですから、神様を信じない異邦人達の間で、天幕の涼しい陰に宿り、はかない安逸を貪るよりは、たとえ灼熱の太陽に焼かれ、厳寒の寒風にさらされる神殿の入口の「門守(門衛)」であったとしても、神様の臨在される御側(おそば)近くにいたいのは、成長した信仰者の心からの願いです。
その一方でペテロは、神々しい光景に圧倒されて混乱し「何を言ってよいか、わからな」かったのも事実です(マルコ福音書9章6節)。ですから、彼は「小屋を三つ建てましょう」と言って、神の独り子の主イエス様とモーセとエリヤを一緒にして、神様と人を同列に扱ったり、主イエス様も栄光の体となったモーセとエリヤにも仮小屋など必要ないのに「小屋」を建てるといったトンチンカンな提案をしました。
その発言を遮るかのように「雲がわき起って彼らをおお」い、「雲の中から声」がありました。この「雲」は「神様の臨在の徴(出エジプト記40章34節、列王記上8章10節、使徒1章9節)」です。そして、その「雲」からペテロの言葉を遮って、「これはわたしの愛する子である。これに聞け。」(マルコ福音書9章7節) との御声が響きました。
その御声を聞いたお弟子達には、もう今までの光り輝く雲もモーセもエリヤも誰もいなくなり、ただ、いつもの人の姿となられた主イエス様だけがおられました(9章8節)。しかも、エルサレムでの十字架を目指して一途に前進される主イエス様の御姿がありました。
ペテロにとっては、天上の栄光の姿をされた主イエス様の許に居たかったに違いありません。しかし、「神様の御心」は、弟子達が「矛盾と苦悩、失意、罪と汚れに満ちた」この世のただ中を、一途に十字架を目指して進まれる主イエス様にお従いして歩むことなのです。これは、現代の私達にも変わることのない父なる神様の御心ではないでしょうか。そして、ペテロたちと同様に現代の私達も主イエス様と共に「病と苦悩、罪と汚れ」のただ中の「この世」に遣わされて行き、そこで「神様の恵み」を証する者とされることが大切です。
礼拝の最後の「祝祷」は文字通り「祝福の祈り」ですが、主なる神様が「礼拝によって信仰が強められ、恵みを受けられた皆様」を「病と苦悩、罪と汚れが渦巻くこの世」に遣しなさるに当たっての「格別の祝福の祈り」なのです。今日も、私達と共にいてくださる主イエスとその御言葉に従い、「主イエス様の恵み」と「父なる神様の愛」と「聖霊なる神様の交わりと導き」に満ち溢れて、この世に遣わされて行きましょう。主イエス様は、いつも共にいて下さいます(マタイ福音書28章20節)。
2025年9月21日 伝道礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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