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2025年9月28日礼拝説教要旨

聖書箇所 ヨハネ福音書 6章22節~40節①
      
          「永遠の命に至る 朽ちない食物」

「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。                 
(ヨハネ福音書6章26~27節)

 

主イエス様が、神様から遣わされた「救い主キリスト」「メシヤ」であることを明確に示す「4つ目のしるし(奇跡)」として「5千人の給食」が行われましたが、直後に人々は主を王様にしようとしました(ヨハネ福音書6章14,15節)。「この方を王様にすれば、今後一切『食いはぐれる』ことがない」と思い、ユダヤ人の王様に祭り上げようとしたのです。でも主は「ただひとり、また山に退かれた」(6章15節の後半)のでした。主は全ての人を救う十字架を避けさせようとする「誘惑」に打ち勝つために、「ただひとり、また山に退」いて祈られたのでした。

一方、驚くべき「5千人の給食の奇跡」を目の当たりにして喜んでいた弟子たちも、主を「王様に祭りあげる」ために群衆の先頭に立って行動したかもしれませんので、主は弟子達を舟に乗せられました(マルコ福音書6章45節)。ところがその舟は逆風で少しも進みませんでした。しかも、「海は荒れ出し」(ヨハネ福音書6章18節)、翌日の「夜明けの四時ごろ」まで、実に10時間近くガリラヤ湖の水の上で「こぎ悩んで」いたのでした(マルコ福音書6章48節)。

主イエス様は、そんなお弟子たちに向かって湖の上を歩いて近づかれました。その時、弟子たちは「何者かが、歩いて舟に近づいて来る」のを目の当たりにしました。同じ記事を記した「マルコ福音書6章49節」では、弟子たちは「幽霊だと思い、大声で叫んだ」とあります。恐ろしさのあまりパニックになっていたのです。すると主は、弟子たちが聞き慣れた御声で「わたしだ、恐れることはない」と宣言されました(ヨハネ福音書6章20節)。怯え切っていた弟子たちは、この御声を聞いて落ち着きました(6章21節)。現代の信仰者である私達も、聞きなれた主の声(具体的には聖書の御言葉からの語り掛け)が与えられると「ああ、そうか」と納得して、御心に適った道を歩み出します。

 「今日を愛する。ライオン」のキャッチコピーで有名な大手生活用品メーカー「ライオン株式会社」の創業者の小林富次郎さんは石鹸事業に携わっていた時、神戸の多聞教会の長田時行牧師の演説会を聞いて入信し、今から140年ほど前の1888年(明治21年)に洗礼を受けました。

その3年後に宮城県でマッチの軸木を切り出して、ひと儲けしようと思ったのでした。ところが、切り出した木材が大洪水のために一夜にして一本残らずみな流されてしまいました。富次郎さんもさすがにこの時ばかりは全く絶望し、へなへなと雨の降りしきる提防にくずれ落ちました。

そして、「もはや自分の人生もこれまで」と北上川に身を投じて死んでしまおうと思いつめた、その時でした。何気なく自分の懐に入れた手に何かさわるものがありました。それは長田時行牧師から頂いた一枚の葉書きでした。そこには「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル書12章11節)とありました。

雨に打たれながらこの御言葉を読んでいくうちに、富次郎さんは「待てよ、もしこの御言葉が真実であるなら、これは恵みの神が、私を訓練しておられる愛のむちであるかも知れない。もしそうなら、これは短気を起こさず、希望を神において奮起しなければならない」と思い、自殺を思いとどまり立ち上がって教会へ行きました。

 それから数年後、製造に着手した「獅子印、ライオン歯磨き」が大ヒット、歯磨き粉のトップシェアを獲得しました。その結果、信仰的にも物質的にも驚くばかりの祝福を受け、大成功を見ることになりました。「そろばんを抱(だ)いた宗教家」とよばれた富次郎さんの造った会社は大きく成長し「今日を愛する。ライオン」株式会社となったのでした。

富次郎さんが回復したのは、「ヘブル書12章11節」の御言葉から神様の語り掛けを聞いたからでした。私たちも、主の御声が聞こえるところに居なければなりません。数々の問題、思い煩いに押し潰されそうになる時、問題が折り重なり胸が苦しくなる時があるかもしれません。でも、まず一呼吸して、主に祈り、主の語り掛けをしっかり聞きましょう。そのために、毎日(毎朝)聖書を少しでも読み、毎日曜日は礼拝を捧げて御言葉に与りたいものです。主の御言葉を聞く時、恐れと思い煩いから解かれ、安らぎが来ます。「わたしだ、恐れることはない」と言われる主が共にいてくださるのです。

さて、今日の聖書箇所の「6章22節~25節」は、「5千人の給食」が行われた直後に、人々が主イエスを追いかけた姿が記されています。彼らは主イエス様を捜し回りましたが見つかりませんので、丁度、折よくやって来たテベリヤの舟に乗って向こう岸のカペナウムに向い、主イエス様と出会ったのでした。そして、彼らは「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねたのでした。

この時、主イエス様は彼らの問いに答えることなく、開口一番「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。」(ヨハネ福音書6章26節)と言われました。

確かに私達にはパンが必要ですが(毎月第3聖日礼拝後の愛餐会での「日々の糧」の賛美参照)、「日々の糧」以上に大切なものがあります。主イエス様は「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(6章27節)と言われました。私達にとって肉体の命を保つ「パンや御飯」「食べ物」は必要ですが、それ以上に「永遠の命に至る朽ちない食物」が必要だと主イエス様は言われます。

「命」は見えませんが、「命」はあります。無くなったら死にます。先週水曜日、武田吉史さんのお父さんが亡くなられました。「命が無くなった」のです。でも、その2日前の月曜日に、危篤状態のお父さんは息子の吉史さんの語られる福音を信じたことを意思表示され「病床洗礼」を受けられました。お父さんの「肉体の命」はなくなりましたが、病床洗礼を受けられて、一切の罪の赦しと共に、神様を信じ神様を知って生きる「永遠の命」を与えられなさったので、今は主イエス様の許におられます。

私たちは、主イエス様が与えて下さる「朽ちる食物」と共に、永遠の神様を知り、その御方と共に生きる「永遠の命に至る朽ちない食物」をいただいています。それは、主イエス様を信じ、仰ぎ、礼拝する私達に与えられているのです。

                           2025年9月28日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎