聖書箇所 ヨハネ福音書6章26節~40節
「信じることが、神のわざである」
「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。 これは人の子があなたがたに与えるものである。」
(ヨハネ福音書6章27節)
「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」
(ヨハネ福音書6章29節)
今から50年程前、出身大学の一般教養講座の「経済学」の最初の時間に、新約聖書の「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ福音書4章4節)が引用されて、「聖書の御言葉も大切だがパンも必要だ」ということで「経済学」の講義が始まったことを今でも覚えています。確かに、私達には「御言葉と共にパンも必要」です。「ヨハネ福音書6章」では、「この方を王様にすれば、今後一切『食いはぐれる』ことがない」と思い、パンを求めて主イエス様を捜し回る人々の姿が記されています。彼らは丁度、折よくやって来たテベリヤの舟に乗って向こう岸のカペナウムに向い、そこで主イエス様と出会いました(同書6章22節~25節)。
その時、主イエス様は開口一番、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである 」(6章26節)と言われ、「追っかけ」をしてきた人々に対してハッキリと彼らの間違いを指摘されました。彼らは「食べ物のパン」に、どんな時も「食いはぐれない」ために主イエス様に従う者たちだったのです。
しかし、このパンという「日々の糧」以上に大切なものがあります。主は続けて「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。」(6章27節)と語られたのです。
先週の3日の金曜日、小雨の中、舞子墓園の教会墓地で、先月24日に亡くなられ、25日に告別式をさせていただいた武田昭治兄の納骨式をさせていただき墓地に納めました。昭治さんの「肉体の命」はなくなりました。そして、お身体もなくなり遺骨となりました。でも、病床洗礼を受けられ、一切の罪の赦しと共に神様を信じ、神様を知って生きる「永遠の命」を与えられなさって、今は主イエス様の許におられます。
私たちには、主イエス様が与えてくださる「朽ちる食物」と共に、永遠の神様を知り、その御方と共に生きる「永遠の命に至る朽ちない食物」があります。それは、主イエス様を信じ、仰ぎ、礼拝する、私達に与えられるものです。
第二次世界大戦ではナチス・ドイツの空襲でロンドンが壊滅的な被害を受けました。その時のイギリスの首相は「ウィンストン・チャーチル」でした。彼は英国民を勇気づけ、侵略者のナチス・ドイツの攻撃に勝利し、イギリスは戦勝国になりました。チャーチルはその経験をもとに、戦後『第二次世界大戦』という本を書いてノーベル文学賞を授与されました。しかし年を重ねると共に希望を失い、心は荒んでいました。ちょうどその頃、ロンドンでビリー・グラハムの伝道集会が行われました。その集会を終えたグラハムがチャーチルのいる首相官邸に招かれた時、チャーチルから「君には希望があるのか。この世界に対してどんな希望を持っているんだ」と尋ねられました。グラハムは携帯用の新約聖書を取り出して、「チャーチル首相、私は希望で満たされます」と答えました。チャーチルはテーブルに置かれた夕刊の性暴力や殺人や憎しみのニュースを指して、「私が子どもの頃は違っていたのだが……。私は老人だ。世界に対する希望もなくなってしまった」。その時、ビリー・グラハムは答えました。「私は人生にワクワクしていますよ。将来に何か起こるか知っていますから」。そして、聖書のページをめくって主イエス・キリストの「誕生」と「死」と「復活」の意味を説明し、続いて「キリストの再臨」についても話しました。
最後にチャーチルは、グラハムに向かって「君が話したような希望でなければ、将来への希望はほとんどないだろう。お若いの。我々は、神のもとに立ち返らなければならないな」と言いました。その後チャーチルは、彼の著書に「私たちは、聖書という『堅固な岩』の上に安心して憩うのである。」と記しました。
その「堅固な岩の上に安心して憩う」ことが出来る聖書のメッセージが、「 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(ヨハネ福音書6章27節)です。
この御言葉で、そこに集う多くの人の心に留まった言葉が、「6章27節」の中程の「永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」という言葉でした。特に「働くがよい」という言葉です。彼らは「働く・・・?」「何かしなければならないんだ」「どんな業をしたらいいの?」ということだったのでしょう。そこで、すかさず人々は主イエス様に「永遠の命に至る朽ちない食物」を得るために「私達は一体何をしたらいいの?」と真剣に尋ねました(6章28節)。そこで、主は「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(6章29節)と語られたのです。
今年は、「新年標語」として「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(ローマ人への手紙4章3節)を掲げて2025年を始めましたが、年度途中の今日の礼拝でも「信じることが大切だ」ということを、聖書は再び語っています。
私の小さな経験ですが、6年前の2019年5月の「活水の群」の「定期総会、連合聖会」の時、坊向先生より「来年4月から山手教会に来てください」との招聘のお言葉を頂きました。家内や娘の真理が4年間お世話になり、その後も深谷西島教会の奥田家の事で坊向先生と山手教会には大変お世話になり、お断わりする理由もありませんでした。そうこうしている内に、その連合聖会中に東京聖書学院の3年生(最終学年)の娘の真理が「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル書37章10節)という御言葉をいただいたのでした。「預言」とは「説教」のことだと考えられますので、本人の真理も私も、真理が深谷西島教会の牧師となって講壇から説教する召しの御言葉を頂いたのだと「単純に信じ」ました。その後、真理は、東京聖書学院を卒業し、日本基督教団の教師試験に合格して補教師に准允され、正教師の按手礼を受け、一昨年、深谷西島教会の牧師に就任しました。その間、いろいろあって数か月間、休職したこともありましたが、何とか復帰して、今、主任担任教師としてご奉仕しています。
ですから、御言葉を頂き、御言葉をそのまま信じることは大切なことです。主は「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい・・・」そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである。」(ヨハネ福音書6章27~29節)。主イエス様を信じましょう。
2025年10月5日(日)聖日礼拝説教要 竹内紹一郎
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