「狭い門からはいりなさい」
「狭い門から入れ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って行く者が多い。命にいたる門は狭くその道は細い。そしてそれを見いだす者は少ない」
(マタイ福音書7章13節)
「狭い門」という表現は世間で一般的によく使われます。たとえば受験や就職のときなどに。またアンドレ・ジードの小説の題名にも出てきます。しかしそれらは聖書のこのところからの引用であることは言うまでもありません。
さてここで、イエスは「人生には二つの道がある」と語っておられます。一つは広い道、もう一つは細い道です。そして前者は滅びの道であり。後者は生命に至る道です。そしてその道の選択の仕方によって人生の結果は大きく異なってくるのです。
ところが多くの人は広い道から入ることを好みます。それは自然のままの生きかたが楽だからです。また何も自分で辛抱しなくてもしたいように生きていけるからです。しかし、狭い門から入る細い道は、いろいろと自分を制約し、場合によっては窮屈に感じることがあります。でもそういう生きかたも「新生」した人(イエス・キリストによって生まれ変わったクリスチャン)には、決して苦痛を感じるようなものではなく、かえって喜びと平安がある道なのです。それはイエスが重荷を負うてくださるからです。
エレミヤ書21章8節に「わたしは命の道と、死の道とをあなたの前に置く」とあります。わたしたちの人生ではときどき岐路を前にして自分の進むべき道を一つ選ばなければならないときがあります。そしてエレミヤは「命の道」と「死の道」と言っていますが、確かにその選択の次第によっては「命の道」「死の道」とその結果は大きく違ってくるのです。
アメリカの24代の大統領をしたグリーブランドは青年時代にこんな経験をしたそうです。ある田舎町で育った彼にはとても仲のよい友達がありました。近々町の映画館に映画が来るのを知ったその青年たちは、それを楽しみに一所懸命にアルバイトをしてお金を貯めました。そしてその日が来て一緒に町の映画館に行きました。すると町の教会に特別伝道集会の看板があるのを見つけました。そこには『人生の岐路』と演題が書いてあり、サブタイトルに「あなたの人生は今日から変わる」とありました。グリー・ブラントはその看板に魅かれるようにじっと見ていました。するともう一人の友人は、「映画がはじまるから早くいこう」と急がすのですが、グリーブランド青年はその看板の前から離れないのです。そして「ぼくは今晩、この教会に行ってみる。どんな話か一度聞いてみたい」と言うのです。すると友達は「この映画をみるのを楽しみにしていたのに」と不満で、映画に行くようにと一所懸命に誘いますが、彼は頑固に「教会に行く」といって自分の節を曲げないので、ついに喧嘩別れになってしまいました。
そしてグリーブランド青年はその晩、イエス・キリストに出会い信仰に入り、熱心なクリスチャンとして教会に励みました。そしてその友人との交際はあの晩が最後でお互いの消息は分からずじまいとなりました。
それから数十年後、グリーブランドは真面目なクリスチャン青年となり、勉強をして弁護士となり人々のために働きました。そして人望を得た彼は多くの人の推奨により大統領にまでなったのです。ところが、もう一人の青年は、その晩、映画が終わってからもムシャクシャ面白くなく、町をうろつく間に、町の不良たちの仲間に入り、犯罪を繰り返しているうちに、最後は凶悪な犯罪を犯して死刑囚にまでなってしまったのです。つまりあの映画館の日がふたりの人生の岐路となったのです。
死刑執行の日、彼は刑務所の所長に「最後に何かしてほしいものはないか」と聞かれたとき、彼は「こんど大統領になった人はだれですか、教えてください」と言うと、所長はグリーブランドという人だ。そういえばお前と同じ町の出身だな」と言うと、死刑囚は「ワッー」と叫ぶなり頭をかかえてしまいました。そして「あの人はわたしの友達だったのだ…」。そして大統領の就任式と同じ日にその友人は死刑台の露として消えていきました。あの日の町の教会の看板が二人の青年の人生の別れ道となったのです。エレミヤ書6章16節に「あなたがたは別れ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために安息を得よ」とあります。わたしたちの人生には幾多の別れ道、つまり「命の道」「死の道」がありますから、そんなときは立ち止まり、よく考え、よく祈り、判断を誤らないようにしなければなりません。多くの人は、自分が楽になる道、自分が好ましい道を選ぼうとしますが、そんな道は「死の道」となる場合が多いのです。それよりも自分には好ましくない、こんな重荷はいやだと思える道のほうが「命の道」であることがあります。
坊向輝國
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