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聖書箇所 ヨハネ福音書7章10節~18節
「聖霊による聖書理解」
「そこでイエスは彼らに答えて言われた、『わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。』」
(ヨハネ福音書7章16節)
「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」
(ヨハネ福音書16章13節)
多くの弟子が主イエス様から一時離れた(ヨハネ福音書6章52~66節)後、主は12弟子を連れてガリラヤ地方を巡って伝道されました(6章67~69節)。その巡回伝道で、多くの人々の病が癒され、神の国の福音を聞き将来の希望を与えられました(マタイ福音書15~18章)。それで、多くの人々はこの人こそ、「来るべきキリスト」「新しいユダヤの国の王様になられる方」と思ったようです。
この様子を見ていた主イエス様の兄弟たち、弟たちは、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。・・・ 自分をはっきりと世にあらわしなさい」(7章3、4節)と言いました。兄のイエス様がローマ帝国に虐げられているユダヤ人を解放する「救世主・メシヤ」としてユダヤの国を救うかもしれないと考えたようです。一方イエス様は、弟たちに「わたしの時はまだ来ていない」(7章6節)、「あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」(7章8節)と言われました。
ところが今日の聖書箇所(7章10節)を読みますと、「あれ、イエス様は祭に行かれたの?」と思う方が多いと思います。主はこの時、ローマ帝国の圧政からユダヤ人を救う「新しい王様」としてではなく、この仮庵の祭を祝う一人の礼拝者として、「人目にたたぬように、ひそかに」都に上られたのでした。モーセの律法に「男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭(過越の祭)と、七週の祭(ペンテコステ)と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない」(申命記16章16節)とあるからです
しかし「神の時」は半年後の「過越の祭」ですから、エルサレムの都は緊張感がただよう、張り詰めた雰囲気でした。何故なら都の人々は、主イエス様が来られたら、「新しい時代が来る」「政権交代の時が間近だ」と思う人も多かったのです。一方「政権交代なんてとんでもない。そうなれば、我々はお払い箱で、御仕舞だ。」と思う人々もありました。それが、「ユダヤ人ら」(7章11節)です。彼らは、当時のローマに支配されているユダヤの国を支える支配階級の人々でした。
ですから「『あの人はどこにいるのか』と言って、イエスを捜していた」(7章11節後半)とは、好意的なニュアンスの表現とは違い、実際には「あの男、あいつはどこにいるのか?」とお尋ね者を捜し回っていたのです(「リビングバイブル」翻訳を参照)。
そのような張り詰めた雰囲気でしたが、都にいる人々の中には主イエス様を「あれはよい人だ」という人がいました(7章12節)。ここで「よい」という言葉は「神様や聖なる人」に使う特別な言葉で(マルコ福音書10章18節参照)、新しい時代を造る「神様から遣わされたキリスト」との意味で使われています。一方、真逆の意見を持つ人たちは、「いや、あれ(イエス)は群衆を惑わしている」「とんでもない、食わせ者だ」と考える人々も多くいたのでした。しかし、エルサレムの都の人々は、「イエス様を捕まえて亡き者にしようとする」ユダヤ人らを恐れて、主イエス様のことを公の場で話す者はありませんでした。
そのような緊張感がただよう張り詰めた雰囲気の中で「仮庵の祭」は行われました。主イエス様は、「仮庵の祭」の興奮が中だるみとなった「祭も半ばになってから」(7章14節)、「宮」と呼ばれますエルサレム神殿に上って、律法の教師(ラビ)たちが教える「ソロモンの廊(長い廊下)」で教え始められたのでした(7章14節)。その時、多くの聴衆は、主イエス様が堂々と旧約聖書の御言葉を正しく解き明かしておられるのを見ました。みんなは、主がガリラヤの田舎の出身で正規の教育も受けていないのに旧約聖書の「律法の教え」を正しく教えておられるのに驚いたのでした(7章15節)。
そこで主イエス様は、田舎の出身で正規の教育も受けていないのに旧約聖書の「律法の教え」を正しく教えておられる理由を説明して、「この教が神からのもの」(7章17節)と言われます。人からではなく神様から直接に教えられたものです。主は、現代の私達に対しても「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせる」(ヨハネ福音書16章13節)と言われます。「真理の御霊」である「聖霊」によって聖書を学ぶと、私達を「真理の教え」に至らせてくださいます。
世界の最高権力者の一人であったジョージ・ウォーカー・ブッシュ元大統領は、若い頃に飲酒の奴隷から解放されクリスチャン大統領になった人物です。彼の評価はいろいろありますがクリスチャンとして歩みました。その告白を本日の週報の裏表紙に載せました。
彼は、第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュの長男として生まれ、幼い頃に洗礼を受けてアメリカ聖公会に属していました。1977年に小学校教師だったローラさんと結婚した時、妻の所属する合同メソジスト教会に転会しましたが、当時のブッシュさんは「聖書もたまに読み、それをある種の自己改善コースと見なしていた。注意して聞いてはいたが、心の耳は閉じていた」と告白しています。
その後、彼はラジオ牧師に導かれ、更に「大統領の牧師」と言われたビリー・グラハム牧師から個人的に導かれて劇的な回心(「ボーンアゲイン」:神によって罪が赦され、霊的に新しく生まれること)を経験しました。ブッシュさんは「放蕩息子」が父親に立ち返ったように、酒びたりの日々から救われ、聖書を毎日読み祈るようになりました。その時のブッシュさんは「私は信仰がなければ、禁酒できなかっただろう。酒のせいで閉じていた目をあけるのを神が手伝ってくれたのだと信じている」と証しました。
彼がアメリカ合衆国第43代大統領に就任した時の演説は「よいサマリア人のたとえ」(ルカ福音書10章30~37節)を引用しました(週報参照)。更に、「同時多発テロ」の夜、演説で国民に「詩篇23篇4節」から語りました(週報参照)。
大統領退任後の2014年、聖書博物館のイベントで「大統領時代」を振り返って「大統領の任期中は毎日、聖書を読んでいました。最も信仰的でいられるのは危機の時で、最も信仰にとって難しいのはすべてがうまくいっている時です」と語りました。彼は神学校で学んでいませんが、聖書から教えられて来ました。彼が劇的な回心で「真理の御霊」である「聖霊」に与る者となったからです。
私達にも、同じ「真理の御霊」である「聖霊」に与っています。聖霊の豊かなお働きを祈りつつ「真理の書」である聖書を読んで、神様の御言葉に生かされる生涯を歩みましょう。
2026年2月22日(日)聖日礼拝説教要約 竹内紹一郎
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