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2026年3月22日礼拝説教要旨

聖書箇所  ヨハネ福音書7章32節~36節           

    「わたしは道であり、真理であり、命である。」  

「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。…』 」 
(ヨハネ福音書14章6節)

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」      
(詩篇119篇105節)


「仮庵の祭」を祝うためにエルサレムに集まった群衆の多くの者は、「イエスというガリラヤのナザレ出身のラビ(教師)が、どうやら新しい王様、キリストではないか」とひそひそ話しているのをパリサイ人たちが耳にしました。彼らは 「イエスを放っておけば、大変なことになる」と危機意識に駆られて、祭司長たちなどの宗教指導者達と共にイエス様を逮捕しようとしました(ヨハネ福音書7章32節)

 その時、主イエス様は、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く」と語られました(7章33節)。この言葉は、逮捕しようとした祭司長やパリサイ人たちには理解できませんでした。でも、今、礼拝を捧げておられる皆さんはお分かりではないかと思います。分かり易い翻訳をしている「現代訳聖書」には「もう少しの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから天のお父様のみもとに帰ります。」(ヨハネ福音書7章33節[現代訳])とあります。        

 主イエス様は、この後、6か月後の「過越し祭」の時、十字架上で私達の罪を贖うため、事切れて尊い血潮を流され、3日後の日曜の朝に復活され、その後40日間はお弟子たちに現れて後、天の父なる神様の許に帰られましたが、当時の人々には、そのことが皆目分かりませんでした。ですから主は「あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」と言われました(7章34節)。ここで「わたしのいる所」がキーワードです。

 「わたしのいる所」とは、「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ福音書14章3節)の「わたしのおる所」のことで、「わたしの父の家」のことです(14章2節)。主イエス様を信じて従う人は「父の家」に至ります。どなたも早い遅いはあっても「父の家」に行かれます。でも「ヨハネ福音書7章の出来事」が書かれた時代の人々には隠されていました。ただ、12人弟子達の特に疑い深い弟子のトマスに対しては、主イエス様が直々にその「行く道筋」を教えられました。「道であり、真理であり、命である」主イエス様によって「父のみもと(父の家)」に至ります(14章4節~6節)

この大切な「天来の救の教え」が当時の多くの人には隠されていて、「ユダヤ人たち」(7章35節)も分かりませんでしたから、彼らは「勝手な推論」をしました。分かり易い意訳をする聖書には「こいつ(主イエス様)は、いったいどこへ行くつもりだろう。もしかしたら、ユダヤを出て、外地のユダヤ人や、あるいは、ひょっとして外国人に教えを伝えようとでも考えてるのかもしれないな」(ヨハネ福音書7章35節[リビングバイブル])とあります。「ユダヤ人たち」は、エルサレムの町で教えておられる主イエス様が捕らえるのを避けて、外国に住むユダヤ人たちや「ギリシャ人」と呼ばれている外国人に教えを伝えるために、外国旅行を考えているかもしれないと言ったのでした。

これは「たわいもない話」に聞こえますが、実は「ユダヤ人たち」の「この言葉」は一つ一つ成就していったのでした。この後、主イエス様が十字架に架かって死なれ、イースターの朝に復活され、50日後のペンテコステの日の聖霊降臨によって始まった「教会時代」に、何と「ユダヤ人たちの語った言葉」が一つ一つ成就していきました。教会の誕生、成長、発展、海外伝道を記しました「使徒行伝」では、使徒パウロ達によって、「ユダヤ人たち」が言うように外国のユダヤ会堂で主イエス様の十字架と復活による「罪の赦しと永遠の命」の「福音」が宣べ伝えられました。しかし、ユダヤ人たちが「福音」を受け入れず拒んだ時、「ギリシャ人」と呼ばれる外国人に「福音」が伝えられました。ですから「ユダヤ人たち」は、そのことを知らず知らずの内に「予告(預言)していた」のでした。

 「え…、何故、救われていないユダヤ人たちが神様の御計画を預言するのか」と思う方もあると思いますが、私たちが「神様の御心」を知る預言は、聖書の御言葉だけではないことを、この箇所は明らかにしています。「ヨハネ福音書」には他にも、不信仰な大祭司が「その立場」の故に、私達の信じる「福音信仰」の核心部分を預言している部分もあります(ヨハネ福音書11章49~52節)。ですから、「神様の御心を現わす預言」は、私達の予想外の所から語られる事があります。それらは稀ではありますが、確かにあり、現代においてもあります。

たとえば、⑴「第二の聖書」と言われる「自然界の営み」です。主イエス様も、自然界の植物や空の鳥や天気などで「御心」を教えられました。バックストン先生も伝道旅行の最中に柘植先生に「この自然界は活ける神の聖書です。このすべての被造物は神の力と尊厳と愛を現しているのです。ですから私たちは黙示の聖書を読むとともに、この活ける聖書を通して教えられなければなりません」と言われました。柘植先生も「見えるところのものを指して、(バックストン先生が)聖書の真理を語ってくださったことは、私の信仰的な修養の大きな助けとなりました」と述懐されています。次は、⑵「摂理(神様が世界や人間の運命を導き、管理しているという考え方)」です。私達が色々な事に取り組んでも、前に進めないことがあります。その様に「止められる」時、「これは神様が止めておられる」と分かることがあります。これも神様からの無言の語り掛けです。更に、⑶お世話になってる「恩師や先輩の助言」の中に神様からの語り掛けを聞くことは多くあります。そして、⑷今日の聖書箇所の「反対者、敵対する人々の言葉」(7章35節)からも、主なる神様が語り掛けられることがあるのです。

 しかし、聖書の御言葉以外で語られたメッセージを、即「鵜呑み」にせず、聖書に記された「主イエス様の教え」や「使徒パウロなどの使徒の教え」と矛盾しないかを確かめてください。違和感を覚えるなら聞き従う必要はありません。

この判断が出来るためには、「聖書の教えに親しむ」「聖書を正しく読む」ことが大事です。「聖書の教え」について知らないと「何が正しく、何が間違いか」を判断できません。週報の「聖書日課」を読むことが大切です。また、聖書(新約聖書だけでも)通読や、信頼できる「旧新約聖書一日一章」「アパルーム」等の分かり易く語り掛けるガイドブックもお勧めします。毎日少しでも聖書の御言葉に親しんでください。

更に大事なことは、やはり毎週日曜日の礼拝で聖書の御言葉をしっかり頂くことです。礼拝こそ私達の信仰生涯の「要」「心臓」で聖書の読み方が分かります。そうすれば「神様からの語り掛け」か「この世の声」かを判別し、堕落の危険から守られ、大いなる祝福を頂く道を歩むことが出来ます(詩篇119篇105節)

                  2026年3月22日()聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎