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聖書箇所 ヨハネ福音書20章19節~29節
「見ないで信ずる者は、祝福される」
「イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」
(ヨハネ福音書20章19節、20節)
「何よりも、心を見守りなさい。心は生活全体に影響を与えます。」
(箴言4章23節LB)
「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。」
(ヨハネ福音書20章29節)
世界の歴史の中で主イエス・キリスト様の復活は最も大きな出来事です。その最初の目撃者が当時の社会や家庭で立場が弱く、裁判の証人すらなれなかった女性のマグダラのマリヤでした(ヨハネ福音書20章11~17節)。それは、「復活された主に最初に出会った人物が女性であったことが否定できないことであり、主イエス様の復活が事実だからだ」と聖書学者は言います。
そのマグダラのマリヤは、弟子達に「主が甦られました。復活された主にお会いしました」と伝えたのですが、弟子たちは主イエス様を十字架に架けて殺したユダヤ人たちを恐れて隠れていました(20章19節前半)。実は4日前の木曜日の夜の「最後の晩餐」の席で、主イエス様は「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行く…』。」と語られていたのでした(マタイ福音書26章31節)。
このように、弟子達には「指導者を失って散らされるが、甦った主にお会いする」と予告された通りのことが起こりました。現代の私達の信仰生涯でも、主なる神様は私達一人一人に対して事前に御言葉をもって導いておられます。心の耳を澄ませて日々に与えられる御言葉をしっかり聞き取りましょう。そして、主とその御言葉を信頼して参りましょう。
この時、主イエス様は「復活の体」をされていました。それまでの母マリヤが産んでくれた普通の体ではなく、「復活の栄光の体」になっておられたので、戸が閉じられ、鍵が掛けられていても通り抜けられました。そして、「安かれ(平安があなたがたにあるように)」と言われました。この「平安(心の平安)」は大切です。「箴言4章」には「何よりも、心を見守りなさい。心は生活全体に影響を与えます。」(同書4章23節[リビング・バイブル])とあります。心に平安があり御言葉の約束に立つなら、周りの状況がどんなに過酷でも、必ず道が開けます。
その後、主イエス様は「手とわきとを、彼ら(弟子達)にお見せに」なりました(ヨハネ福音書20章20節前半)。それは、私達人間が犯している「罪」「咎」そして「汚れ」を身代わりになって償い、清めるため、十字架上の両手に犬釘を撃ち込まれた傷跡と、罪を赦し清めるための尊い御血潮の流れ出た脇腹の槍の跡でした。「復活の栄光の体」になられた主イエス様ですが、お体には十字架上で付けられた「贖いの傷跡」が生々しく残っていました。それを見た弟子達は「主イエス様に間違いない」と思い「弟子たちは主を見て喜んだ」のでした(20章20節後半)。
私達も地上の生涯の使命を終えて天に上げられる時、そこには主イエス様が待ち構えておられ「手とわきとを、お見せになる」ことでしょう。その時、私達は、主イエス様の十字架のお痛みを思い、更に、救われた幸いを覚えて、「主イエス様、十字架の贖いの御傷と血潮をありがとうございます」と嬉し涙を流すのではないかと思います。主イエス様の「手とわき」の傷跡は、私達一人一を愛して贖の恵みを与えて下さった「紛れもない徴(しるし)」です。
続いて主は、再び「安かれ(心に平安があるように)」と言われました。やはり「心の平安」が大事なのです(箴言4章23節LB参照)。そして主は「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ福音書20章21節)と「派遣の言葉」を語られ、「息を吹きかけて」「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」と宣言されました(20章22節後半~23節)。
教会は、お互いに祈り祈られ、支え支えられて信仰生涯を全うするところですが、「罪の赦し」を宣言する大切な使命があります。罪が赦されてこそ、私達には「祝福された生涯」が始まります。主イエス様は、「罪の赦し」の宣言が「教会の使命」であると言われたのです(洗礼式や聖餐式は「罪の赦し」が宣言される時です)。
12弟子たちは色々な性格の人々がありました。熱心だけれども「おっちょこちょい」で、ここ一番で失敗するペテロ。「雷の子」と呼ばれた短気なヤコブとヨハネの兄弟など、十人十色の弟子達でした。その中で「疑い深い(懐疑論者)トマス」の姿が記されています(20章24節)。「デドモ」とは「双子」の意味で、トマスは文字通り「双子」だったのでしょう。彼は、自分が外出中に「復活された主イエス様が来られた」と聞いて、一人取り残された焦りがあったのでしょうか。トマスは「見るだけでなく」、主イエス様が十字架上で付けられた「贖いの傷跡」に触らないと決して信じないと断言したのでした(20章25節後半)。
本当に疑い深いトマスですが、主イエス様はお姿が見えなくてもトマスのそれらの言葉を残らず聞いておられ、「八日ののち」弟子たちのいた部屋に入って来られ、三度目に「安かれ(平安があなたがたにあるように)」と語られました(20章26節)。弟子達にも現代の私達にも「心の平安」は大切です。そしてトマスの言葉を聞いておられた主イエス様は、彼の願いにそのまま答えようとされました(20章27節)。主イエス様はトマスを含めて全ての弟子達に、再び「贖いの傷跡」を見せ、トマスには「さあ、あなたの罪と咎と汚れを赦し清めた『贖いの傷跡』を触りなさい」「あなたの願いを聞いたよ」と迫られたのでした。そして、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語られました。
その時、トマスは自分の願いを全て聞いておられた「贖い主イエス様」に対して、「わが主よ、わが神よ」、「私の主なる御方、私の神様」と叫びました。トマスのこの「信仰告白」に応えて、復活の主イエス様は「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」と語られました。
この「さいわい」とは、「運良く」「ラッキー」という意味ではありません。よく「幸いにも、困難を避けることが出来ました」と言いますが、そのような「ラッキー」「運よく」の意味ではありません。主イエス様が、ここで「さいわいである」と言われるのは、「祝福されます」との意味です。
主イエス様は「見ないで信ずる者は、祝福されます」と言われます。トマスだけではなく現代の私達に対しても、「見ないで信ずる者は、祝福されます」と言われます。
私たちは今日、「見えない御方を信じる者」にこそ「溢れるばかりの豊かな祝福がある」ことをしっかり心に留めましょう。そして復活され、今も生きておられ、平安を与えてくださる主イエス様を今日も信頼して参りましょう。
2026年4月5日(日)イースター礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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