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2026年4月19日礼拝説教要旨

聖書箇所 マタイ福音書27章45節~56節        
    
       「十字架の上の7つの言葉」


「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。(中略)イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。(中略)百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、『まことに、この人は神の子であった』と言った。」 
(マタイ福音書27章46~54節) 


2千年前の聖書が書かれた時代では、十字架は重大な罪を犯した人を死刑にする道具でした。余りに苦しい刑罰なので「ローマ市民権」を持つ人は除外されていました。主イエス様は罪が一つもないのに十字架に架かられ、「7つの言葉」を語られました(週報裏表紙参照)。主は両手と両足に大きな「犬釘(今の鉄道のレールを固定する大きな釘)を撃ち込まれて十字架に架けられ、ゴルゴダの丘に立てられました。その苦痛は筆舌に尽くしがたいことでした。

十字架の上で主イエス様が最初に発せられた「第一言」は、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(週報裏表紙【1】ルカ福音書23章34節)という「執り成しの祈り」の言葉でした(讃美歌121番3節参照)。死刑を執行する百卒長(ローマ軍で百人の兵隊を束ねる隊長)は、御自分を殺そうとする人々のために、その罪を赦してくださいと祈られた主の御姿を見て、主が「ただの人ではない、聖なるもの」を感じたことでしょう。

イエス様の左右には強盗が十字架につけられました。一人は最後まで主を罵りましたが(ルカ福音書24章39節)、もう一人は「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」と言い、十字架上で初めて自分の罪深さを知りました。そして、自分の罪を心から悔い改め、主に「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言いました(23章40~42節)。それに対して主が言われたのが「第二言」です。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(【2】23章43節)。「パラダイス」とは「主と共にいる救われた状態」の意味です。

 その後、「第三言」として、主は早逝の義父亡き後から長年世話をしていた母マリヤに「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」と言い、頼りにする使徒ヨハネに「ごらんなさい。これはあなたの母です。」と言って母マリヤを委ねられました(【3】ヨハネ福音書19章26,27節)。

しかし、昼12時から全てが一転しました。「地上の全面が暗くなっ」(マタイ福音書27章45節)たのは、主が神の独り子の立場を捨てて私たち罪人の身代わりとなられたことを示す自然現象と言われています。それまで神様に愛されたイエス様でしたが、一転、私たちの代わりになって神の怒りを一身に受ける「罪人」となられたのでした。それは、「昼の十二時から・・・三時」に及ぶ長時間の「暗黒」でした。

 そして、午後3時頃になった時、「罪人になられた」主イエス様は、「第四言」として「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)。」との深刻な叫び声をあげられました(【4】27章46節)。主は、もう「父よ」とは叫べず、父なる神様から切り離された「罪人」として捨てられ、「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と叫ぶしかなかったのです。 信仰者にとって神様から切り離されることは「一番辛いこと」です。私が入信して数年経った時期、自宅でお祈りしていると急に「祈りの声」が出なくなり祈れなくなり、ショックでした。「神様から切り離され捨てられた。後は暗黒の世界、奈落の底に沈むのか」と怖れ、苦しくなりました。それで、ひたすら神様にすがり叫びました。程なくして、「祈りの声」が出て安心しましたが、苦い思い出です。

 主イエスが完全に「罪人」となられ、「神様に捨てられ、永遠の暗黒を刈り取られた」時、十字架の周りの人は、主が「エリ、エリ」と叫ばれたのを勘違いしました。世の人々は「神様に捨てられる」恐ろしさを知りませんので見当はずれの愚かさを露わにしました(27章47節~49節)。

その後、主は最期の言葉を大声で叫ばれました(27章50節)。各福音書には「3つの言葉」が記されています。「第五言」として「わたしは、かわく」とあります(【5】ヨハネ福音書19章29節)。ヨハネは「聖書(詩篇69篇21節)が全うされるため」と記しています(19章29節)。続いて「第六言」として「すべてが終った(成し遂げられた[新共同訳]、完了した[新改訳])」と宣言されました(【6】19章30節)。御自分が、全ての人の全ての罪を背負って「十字架上で罰せられ、御自分の死を以て償いを完成された」のでした。最後に「第七言」として「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われ、ついに息を引きとられました(【7】ルカ福音書23章46節)。

主が息を引きとられると「3つの事」が起こりました。第一は「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」とあります。父なる神様が、エルサレム神殿の「至聖所」と「聖所」の仕切りの幕(高さ9~10m、幅7m、厚み12cm位)を「上から下まで真二つに」裂いて、隔てなしに神様と人間が交われるようにされたのです。今、私達が「アバ、父よ(天のお父様)」と心からの祈りと願いを捧げられるのも、この仕切りの幕が上から「真二つに裂けた」からです。第二は「地震」です。当時の人々は、全地が真っ暗になり、地震が起こる「天変地異」で恐れ惑いました。第三は「岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」のでした(マタイ福音書27章51~53節)。

 それまでも同じこと(ルカ7章「ナインの寡の息子」、マルコ5章「会堂司のヤイロの12歳の娘」、ヨハネ11章「病死したベタニヤ村のラザロ」)が有り、主が十字架上で亡くなられた時、罪の赦しと人々の生き返りがエルサレムの都で大規模に起こりました。

主イエス様を十字架に付けて6時間、主の御姿を見つつ、暗黒と地震の揺れを体験した百卒長たちは「まことに、この人は神の子であった」と言う他ありませんでした。この告白をした百卒長は名前を「ロンギヌス」という人です。彼は十字架上の主のお姿が心から離れず、後に主を信じる忠実な信仰者となり、「神の子で、救い主イエス様」を伝道し、最後は殉教の死を遂げたと言われています。

現代の私たちも、この主イエス様を「救い主キリスト」と信じるなら、主は「あなたはきょう、私と一緒にいる」と言って「永遠の救い」に導かれます。この主イエス様を信じてください。

                         2026年4月19日()伝道礼拝説教要旨 竹内紹一郎