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2026年5月3日礼拝説教要旨

聖書箇所  ヨハネ福音書7章40節~52節           

              「主に近づく者への祝福」

聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。」 
(ローマ書1章4節)


「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」        
(伝道の書3章11節)


「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」
(ヤコブ書4章8節
[新共同訳]


「祭の終りの大事な日」に、主イエス様は「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る」(ヨハネ福音書7章37節)と言われました。山手教会創設者の坊向久正先生が、柘植不知人先生の指導に従われ、「祷告(執り成し)の祈り」の中で、この「生ける水(聖霊)」に満たされ、その水があふれ出して人々の魂を潤し、癒し、祝福が与えられました。

主イエス様が、この「生ける水」(7章38節)について大声で叫ばれた時、人々には主イエス様について様々な判断があり「分争」が生じました(7章43節)。ある者は「あの預言者」と言いました。出エジプトの指導者モーセが「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起される」(申命記18章15節)と言ったからです。主イエス様をモーセのような「ひとりの預言者」だと思ったのでした(ヨハネ福音書7章40節)

また、当時のローマ帝国を打ち負かしイスラエルの国を立て直す政治的な指導者としての「キリスト」と考える人もありました(7章41節前半)。一方で、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう」という人々もありました。「キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてある」からでした(7章41節後半、42節)。でも主イエス様は、住民登録のためユダヤのベツレヘム村の家畜小屋で生まれなさり、ガリラヤのナザレに帰って、大工ヨセフの息子として育ちなさったのです。「こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた」(7章43節)のでした。

更に、主イエス様の存在を否定し、捕らえて殺そうとする人々もありました(7章44節)。人が「この方はどのような方か?」と評価するのは難しいことです。間違った評価で大きな問題も起こります。しかし時が来れば、主なる神様が「正しい評価」を与えて下さいます(ある婦人伝道者の証)

主イエス様が、「正しい評価」を受けなさったのは、主が私達の全ての罪を背負ってゴルゴダの十字架の上で事切れ、尊い血潮(御宝血)を流して罪の完全な赦しと聖潔の御業を完成なさった後、三日目に甦られ「復活された時」です。「ローマ書1章」には「御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。」(同書1章3、4節)とあります。現在、世界人口の1/3の人々が、この「復活された主イエス様」を信じて礼拝を捧げています。

しかし、2千年前の「仮庵の祭」での主イエス様の評価は色々で「捕らえられなさる可能性」もありましたが、「だれひとり手をかけるものはなかった」のでした(7章44節)。それは、主イエス様が「わたしの時はまだきていない」(7章6節)と言われたように、「神様の定められた時が満ちていなかった」からです。私達にとっても「神の時」が来なければ何も起こりません。しかし、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)のです。「神の時」を弁(わきま)え、その時を待つことが信仰生涯の秘訣です。

 この時、「下役ども」(正確には逮捕する権限を持つので「神殿警察官」)は、主イエス様を逮捕するために神殿の境内に出て行ったのですが、「空手(手ぶら)」で帰って来ました(7章45節、46節)。当然、祭司長たちは「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」と彼らを責めました。彼ら神殿警察官たちは「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」と答えました(7章46節)。この箇所を現場の雰囲気を理解して分かり易く翻訳している聖書には「警備員たちは、口ごもりながら答えました。『は、はい。でも、あの人の話すことが、とてもすばらしくて…。なにせ、これまで聞いたこともないようなお話なんですから。』」(7章46節[LB])とあります。

 「神殿警察官」は、主イエス様が神殿境内で話された話に感動して、叱られるのが分かっていながら何もしないで帰ってきました。それ程に主の説教が素晴らしく、力に満ちていたのでしょう。それは、この時に限ったことではなく、公の伝道生涯(公生涯)の初期の「山上の説教(山上の垂訓)」を語られた後でも「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたから」 (マタイ福音書7章28、29節)とあります。主イエス様のメッセージは権威があり、人々の心に届き、新しい歩みに踏み出させました。「仮庵の祭」での主のメッセージも、神殿警察官だけでなく多くの人々の行動を変える権威のあるものでした。その原動力は、「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである」(ヨハネ福音書3章34節)とある「聖霊」です。現代の説教者も、聖霊によって語らせていただけるようにお祈りをお願いします。

その後、主の御言葉の説教に感動した神殿警察官の予想外の姿を見て面食らったパリサイ人たちは、感情的になって「律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」と吐き捨てました(7章47節~49節)

一方、そこにもう一人、パリサイ人の指導者ニコデモがいました。以前、彼は人目を避けて「夜イエスのもとにきて言った、『先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません』」(3章1節~2節)と言いましたが、この時には、主イエス様を擁護しました(7章50節~51節)。彼は「まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ」とありますので、彼は主の「言い分」と「したこと(行動)」をよく知っていたのです。彼は、今で言う「推しのアイドルの追っかけをする」といえば語弊がありますが、主イエス様をいつも見ていて、その説教を聞いていたので、主を擁護できたと思われます。

彼は、この「ヨハネ福音書19章最後」に3度目の登場をしますが、その時は自分の身の危険を顧みず十字架から降ろされた主イエス様を何億円もする香料で丁重に葬ったのでした(19章39~42節)。それは、ニコデモが主イエス様を心から信じていた証でした。彼の名前は聖書に記され、永遠に記念されています。

主イエス様に近づき従う人には、主は御自身の本当の御姿を現して永遠の祝福に至らせてくださいます。「ヤコブ書」に「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(同書4章8節[新共同訳])とあります。主イエス様に近づきましょう。主もあなたに近づき、永遠の祝福を備えて下さいます。

                2026年5月3日()聖日礼拝説教要約 竹内紹一郎