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2026年6月14日礼拝説教要旨

      いつも喜んでいなさい

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたかたに求めておられることである』。
(テサロニケ前書5章16節~18節)

 

いつもこのみ言葉を開くたびに、あるひとりの人のことを思い出します。わたしが長野の教会で働いていた頃のことですから、もう50年も昔のことで、30歳代のころです。ある日曜日からひとりの和服のよく似合う上品な初老の婦人が教会に来られるようになりました。数回ほど休まないで礼拝に来られましたので、ある日、その夫人の家庭を訪問しました。

教えられた住所地を捜しましたが、それらしい家は見当たらないのです。そして住所地には見すぼらしい平屋の家屋がありましたが、それはその夫人には相応しくない建物でした。外壁はまだ工事も半ばで上塗りができていませんでした。でも、いちどその家で聞いてみようと尋ねましたら、奥から出てきたのはその夫人でしたので驚きました。

「どうぞ、お上がりください」と言われ部屋に上がりましたが、やはり内装も未完成で、天井板もなく電線が張っているような状態でした。私がきょろきょろ見回していると、奥様が「先生、驚かれたでしょう」と言ったので、つい「はい」と言ってしまいました。そこで奥様は、「わたしの話を聞いてください」と話をはじめました。

この奥様は、わたしたちの教会のある町でも指折りの資産家の娘で、女学校を卒業してすぐに隣町の、これまた資産家の家に嫁いでいきました。その家は大きな屋敷で、中庭には大きな池があり、その向こうには総檜造りの離れがありました。そして男衆と女中さんが数人もいるという状態で、なんにもすることもなく奥に座っていればいいほどの文字どおりの奥様でした。それで友達から「あなたみたいな幸せな人はない」と羨ましがられましたが、この人にとっては、夕方に家の前に通る、一日の労働を終えて大八車を引いて家路につく百姓夫婦のほうが幸せに思えたそうです。

そのうちに、主人を病気で亡くし、また長男も結核で亡くして悲しみのどん底にあるときに終戦になりました。そんなときに政府は農地改革を断行し、たくさんあった農地が買い上げられたのです。そして残されたのは、家屋敷と僅かばかりの農地でした。ところが今まで会ったことのない親戚と名乗る人が来て、「こんどは山林も改革するそうだから、今のうちに売ってしまったほうがいい」と騙し、権利書と印鑑を持っていってしまいました。そして気がついたときには山林も家屋敷もみな売り払われてしまっていました。そこで仕方なく残った土地に小さな小屋のような家を建てて住んでいたのです。

そんなどん底のときに教会に導かれて救われたのです。そして話の最後に奥様が「わたしの愛唱の聖句を言いましょうか」と言われたのが、「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝しなさい」というみ言葉でした。それを聞いてわたしは驚きました。どんなにたくさんの財産があっても得られなかった平安が、イエス・キリストを信じて救われて、はじめて得ることができたのです。

さて、「常に喜べ」とありますが、いつでも喜べる人は幸いです。しかし多くの人は聖書に「喜びのはてには憂いがある」(箴言14章13節)とありますが、何かいいことがあれば喜んでいても、またすぐに消えてしまいます。それはほんとうの喜びではないからです。また詩篇16篇11節には「あなたの前には、満ちあふれる喜びがある」とありますが、この「あなたの前」とは、神の臨在のことです。また臨在のあるのは教会です。そして、御霊によって与えられる喜びは満ちあふれる喜びで、心の底からこんこんと湧き出る喜びです。

次に、「すべての事を感謝しなさい」とあります。不平不満の多いこの世のなかで、感謝できる人はさいわいです。クリスチャンの口からは「感謝」という言葉が自然にでてくるのは素晴らしいことです。教会員のお婆さんが突然召されました。そこで、その家に駆けつけたとき、娘さんから「母がこんなものを残していました」と日記帳を渡してくれましたので、開いて見ると、各ページにその日にあったことがこまかく記録されていました。ところが召される最後の日のページを見ると、ただ二文字だけ大きく、「感謝」と書いてあるばかりでした。日頃から元気な人でしたのに、何を察知したのか、その人の人生が感謝で終わっているのは、素晴らしい生涯だったと推察しました。

わたしたちも最期には「感謝」といって人生を終われたらこんなに幸せなことはありません。

最後に、「絶えず祈れ」とありますが、絶えまなく祈ることで、これは恵まれた信仰生活を送るためには大切なことです。

坊向輝國