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2026年6月28日礼拝説教要旨

聖書箇所  ヨハネ福音書8章21節~28節        


     「わたしはある。わたしはあるという者だ」

「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」     
(ヨハネ福音書8章24節
[新共同訳]

「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」                  
(ヨハネ福音書13章7節)


前回は「ヨハネ福音書」を読む上で大切な主イエス様の「自意識(主が心の中で御自分をどう考えておられたのか)」について導かれました。それは、主が「12歳になった時」(ルカ2章42節)というよりも、物心のつく頃(多分、3歳前後)から「お父さんはヨセフではなく、父なる神様だ」(2章49節)と意識されていたと思われるからです。それは、成長して大人になられるとどんどん強められました。ですから私達が「ヨハネの福音書」を読む時、主が御自分を「神の独り子」「子なる神」「真の神」であると意識されていたことを弁(わきま)えて読むことが大切です。

今日の聖書箇所でも、主イエス様は御自分が「神の独り子」であり「子なる神」「真の神」であると宣言されている箇所が2箇所あります。まず「8章24節」で「だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」(8章24節[口語訳])とありますが、「わたしがそういう者であること」とは、何のことなのかハッキリしません。

一方「新共同訳聖書」では、同節を「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(8章24節[新共同訳])と翻訳し、更に同じ言葉が「8章28節」でも「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」(8章28節[新共同訳])と翻訳されています。

「新約聖書」の土台となる「旧約聖書」の「出エジプト記」には、「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エジプト記3章14節[新共同訳])とあります。ですから『わたしはある』とは、「神様の呼び名(名前)」で、主イエス様は「わたしは、『あってあるもの』、神だよ」と言っておられるのです。

このように、主イエス様が「自分は神だ」と言われていることを受け止めて、今日の「ヨハネ福音書8章21節~22節」を読むと正しい意味が分かります。主はこの後6か月後には、私達全人類が犯してきた全ての罪の罰を受けるために、身代わりになってゴルゴダの丘の十字架の上で事切れ尊い血潮を流されました。そして3日後の日曜日の朝に墓の中から復活し、40日間弟子たちに復活された御自身を示され、オリーブ山から天に昇り、父なる神様の御座の右に着かれました。ですから主は、罪と汚れと不信仰に塗れたユダヤ人たちが来ることが出来ない天の御座に昇るために「私は去って行く・・・あなたがたは来ることができない」(ヨハネ福音書8章21節)と言われたのでした。

更に「新共同訳」の「8章24節」(週報裏表紙参照)では、主は「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということ(わたしは、神である)ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」とハッキリと言われました。ユダヤ人を含めて、私達は主イエス様を「神様」と信じるなら救われ、永遠の命を与えられます。しかし、信じなければ「自分の罪のうちに死ぬことになる」のです。

でも、ユダヤ人は「あなたは、いったい、どういうかたですか」(8章25節)と尋ねました。主イエス様は、『わたしはある』ということ(わたしは、神である)ということを語り続けられました。しかし、ユダヤ人たちは、そのことを受け入れません。そこで主は、自分の属するユダヤ民族に教え諭したいことが幾つもあったのですが、それを止めて「『わたしはある』ということ(わたしは、神である)ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という「父なる神様からのメッセージ」だけを語られたのです(8章26節)。しかし、その場にいたユダヤ人には、皆目、そのメッセージの意味が分かりませんでした。彼らの霊的な耳は閉じていて、大事なことを聞き逃していたのです(8章27節)。

そこで、主イエス様は「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、 また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」(8章28節[新共同訳])と言われました。

ここで「人の子を上げたとき」とあるのは、主イエス様が十字架につけられ、止めを刺されて尊い血潮が流された時のことです。この時、十字架刑を執行したローマ軍の百卒長は「まことに、この人は神の子であった」(マタイ福音書27章54節)と言いました。また、この日の午後は全地が暗闇に包まれ、地震が起こり、多くの聖徒たちが蘇生してエルサレムの街に現れました(27章45~53節)。その後、ペンテコステンの日に聖靈が降られると、ユダヤ人たちは、自分たちが主イエス様を十字架に付けて死に追いやったことを思い出して心から悔い改め「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言いました(使徒2章36~37節)。その時、主イエス様を十字架に架けて殺したユダヤ人3千人が、罪を悔い改めてバプテスマを受けました(使徒2章38~41節)

 主イエス様が『わたしはある』という(神様である)こと」がユダヤ人にハッキリと分かったのは、彼らが「人の子を上げてしまった後」でした。私達も「後はじめて・・・わかってくる」(ヨハネ福音書8章28節)ことが多くあります。当座は、その出来事の「大切な意味」も分からずに右往左往したり、周りに当たり散らしたり、失意落胆したりしますが、出来事の意味は「後はじめて・・・わかってくる」のです。

戦後に子だくさんの夫婦が遭遇した結婚の危機と経済的な危機と、その後におとずれた信仰者としての祝福についても、当座はどうなることかと思う出来事でしたが、その意味は「後はじめて・・・わかってくる」のでした。

主は「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになる」(ヨハネ福音書13章7節)と言われます。「後、知るべし」です。目の前の厳しい出来事にも動じず、まず「神の独り子」の主イエス様を信頼して参りましょう。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」からです(ローマ書8章28節)。

              2026年6月28日()聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎