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聖書箇所 ヨハネ福音書8章31節~38節
「主の御言葉にとどまる生涯」
「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」
(ヨハネ福音書8章31節、32節)
「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。」
(ガラテヤ書5章15節)
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」
(コロサイ書3章13、14節)
先週は、主イエス様が2回「『わたしはある』というものだ」(ヨハネ福音書8章24節,28節[新共同訳])と言われ、御自分が「神の独り子」であり「子なる神」であって「真の神」であると宣言されたことから導かれました。「出エジプト記3章14節」には、荒野で、燃えているのに燃え尽きない柴の木を発見したモーセに対して、「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エジプト記3章14節[新共同訳])とありますように「わたしはある」とは、私達が信じ、今礼拝している神様の「呼び名(名前)」のことだとお伝えしました。
主イエス様は、その「わたしはある」という神様の「呼び名(名前)」を用いて「わたしは、『あってあるもの』、神だよ」と言われたのですが、ユダヤ人は受け入ませんでした。でもその後、多くのユダヤ人が「イエスを信じた」というのです(8章29節、30節)。
主は、人々の前で「御自分が真の神」だと証しする幾つもの奇跡を行われ、多くの病人が癒され、飢えた人々の必要を満たされ、嵐を静められました。その主が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神であると宣言された時、人々は「イエスを信じた」のでした。その信仰は、不十分なものであったでしょうが、「多くの人々がイエスを信じた」(8章30節)のでした。
そのイエス様を信じた人々の多くはユダヤ人ですが、主はその人々に「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら…」(8章31節前半)と言われました。私達は、今、人生の中で一番大事な「主なる神様への礼拝」を捧げていますが、その「礼拝」の中心は「御言葉に聞く」ことです。聖霊に導かれた使徒達や弟子達が書き記した「聖書の御言葉」を、私達は「神の言葉」として受け止め、それを聞いて礼拝を捧げています。その御言葉に従って御言葉の内に留まるのが、私達の信仰生涯(クリスチャン生活)です。
ですから、「わたしのことば(御言葉)のうちにとどまっておるなら」、私達は主イエス様の弟子となり「真理を知」り、その「真理は・・・自由を得させる」(8章31節)のです。この「真理」は難しい哲学的な意味ではありません。「真理」とは、主が「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(14章6節)とありますように主イエス様御自身です。
しかしユダヤ人たちは、「自由を得させる」という言葉に引っ掛かり、躓(つまず)きました。当時は「奴隷制度」があり、主イエス様が地上におられた2千年前の当時の時代背景を正確に描き出した映画「ベン・ハー」には、妹の不始末で身代わりに投獄され、奴隷となってガレー船の漕ぎ手になったベン・ハーの姿が描かれていました。そのように2千年前の当時は「自由人」と「奴隷」がいました。
それでプライドの高いユダヤ人たちは、奴隷でもないのに何故、「自由を得させる」と言うのかと、当惑し反発したのですが(8章33節)、主は、「ユダヤ人」だけでなく「人間の本当の姿」を示されました(8章34節、35節)。
「罪」といっても、今の時代の「警察沙汰」のことではありませんが、人は数々の「罪」を犯している存在であり、ユダヤ人も同じです。主イエス様は「どの人も罪を犯し、『罪の奴隷』だ」と言われるのです(8章34節)。それで主は、私達が御言葉のうちに留まっていれば「罪の奴隷」となることなく「自由」になれると言われました(8章31,32節)。
ある人が主イエス様を信じて救われてから聖書の中の「心を打つ御言葉」があれば、努めてそれを暗記するようにしました。そして何かあるたびに、その御言葉を思い起こすことによって、罪を犯す誘惑に打ち勝つことができました。たとえば、その人が若い時にしていたオートバイのセールスマン時代に、取引先の人から「感謝を表わしたい」からと言うことで、いかがわしい歓楽街に連れ込まれたことがあり、性的な誘惑にさらされました。
その時、その人の心に浮んできた御言葉は、創世記の「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(同記39章9節)でした。これはエジプトの奴隷に売られた青年ヨセフが、女主人からの性的な誘惑を拒(しりぞ)けた時に言った言葉です。
その人は、この御言葉を思い出して、ヨセフと同じく、その汚らわしい誘惑の中で、自分の身を清く保つことができたのです。そればかりか、相手の得意先の人をも同じ罪に陥ることから救うことができて、後にその人の奥さんからとても喜んで頂いたそうです。御言葉には、人を誘惑から守り、罪から救い出す力があります。大切な祝福を失うことから守られるのです。この人は、後に献身して牧師となり、ラジオで多くの方々に福音を伝える働きに大いに用いられました。でもこの人が御言葉のうちにとどまる幸いを知らなければ、「罪の奴隷」として生涯に与えられる多くの祝福を失ったことでしょう。「罪」は、私達の人生から多くのものを奪い取り、神様からの祝福を失わせるものです。
この世の巷には数々の汚れや罪がありますが、そのような世間の誘惑と罪だけでなく、私たちは日常生活の中で数々の罪に対面します。たとえば意見や感情の行き違いで、憎しみや妬み、悪意や中傷と向き合います。その罪に負けてしまうと祝福を失います。日本の諺に「人を呪わば穴二つ」とあります。「他人に害を与えれば自分も害を受ける」という意味です。
同じ意味の言葉が、聖書の「ガラテヤ書」に「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。」(同書5章15節)とあります。現代の私達も、意見や感情の行き違いで相手を痛めつけて主の御心を痛める諍(いさか)いとなることがあります。その時は共に主の祝福を失います。それは、現代の「罪の奴隷」の一つの姿です。ですから、「コロサイ書」には「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから…これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」
(同書3章13、14節)と勧めています。
皆さんが主の祝福を失う生涯ではなく、主の御言葉のうちに留まって、「赦し合う生涯」「愛し合う生涯」に進み、主の祝福に豊かに与かられるようにと願います。
2026年7月5日(日)聖日礼拝説教要約 竹内紹一郎
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