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聖書箇所 ヨハネ福音書9章1節~12節②
「信仰の一歩」
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 」
(ヨハネ福音書9章3節)
「イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、『シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい』。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。」
(ヨハネ福音書9章5節~7節)
「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」
(ヨハネ福音書8章31節―32節)
エルサレム神殿境内での「仮庵の祭」で、主イエス様が最後に語られたメッセ―ジは、「アーメン、アーメン(大事なことを話しますからね)」と前置して「アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」(ヨハネ福音書8章58節)でした。別の翻訳では「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(8章58節[新共同訳])です。「わたしはある」とは「主なる神様」を意味する表現(30日週報裏表紙参照)です。主は御自分こそ「アブラハムよりも前からいる、真の神だ」と宣言されたのでした。
それに対して、ユダヤ人は当然のごとく反発し、「彼らは石をとって、イエスに投げつけ(石打ちの死刑にし)ようとした。」しかし主の十字架の贖いの半年前で、「神様の時」はまだ満ちず、「イエスは身を隠して、宮から出て行かれ」(8章59節)ました。
その後、主イエス様は生れつきの盲人を町中で見られ、その後、彼をじーっとご覧になったのでしょう。一方、弟子達は「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。」と尋ねました(9章1,2節)。この考え方は(友人達が病気になったヨブを「罪を犯したから」と責め立てた)ユダヤだけでなく日本にもあります。主イエス様は「罪の結果ではない」と言われ「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(9章3節)と言われました。関西聖書神学校の同窓生も先天的な視力の弱さで苦しんでいましたが、この「9章3節」の主の御言葉に出会い、「自分の過去、親、自分を責める間違い」を知り、サタンが吹聴した「噓」から解放されました。多くの盲人の方も「9章3節」の御言葉で「心の目を開かれ」生ける真の神様を信じました。主イエス様は、盲人でも健常者でも、全ての人々に「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうに わたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(8章31節、32節)と言われ、「嘘、偽り」に満ちた世の考え方に雁字搦めの人々を本当の自由に至らせ、真の解放である「救い」を与えられます。
続いて「昼の間に」(9章4節前半)とあります。主イエス様が十字架に架かられる迄の「後、わずかの間」のことです。主がこの世にいてくださる間は、「世の光」として働かれ、この世の暗闇で「心の目の視力」を失っている人々に働きかけ、全ての人々が「心の目」を開かれて、「神様の御愛と真実」を知るようにして下さいます。主はそのためにこの世に来られた「世の光」です(9章4節後半)。
この後、「肉体の目」が開かれる奇跡が記されていますが、それはもっと大切な「心の目」「信仰の目」も開かせるものとなります。(ヨハネ福音書9章6節~7節、38節)。
「つばき(唾)」(9章6節)は、当時病気を癒す「治癒力があるもの」と信じられていました。「生れつき目の見えない盲人」の目が見えるようになるために、「彼が信仰を働かせる」「彼が神様の御業を信じる」のは相当に困難です。今まで生れつきの盲目であるために失意落胆の連続で、「神様は自分を見捨てておられる。自分なんか愛しておられないんだ。」と考えて生きて来たのではないかと思われます。
ですから、主イエス様がいつもは御言葉一言で人々の病を癒やされたのですが、この時はその盲人が癒やしの信仰を持てるように、「地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗」(9章6節)られました。これは盲人が目に何かを塗られたことで「目が見えるようになる」という信仰を持てるようにされた「主の配慮」です。
主イエス様は全能で何でもお出来になりますが、この盲人が信仰を働かせなければ奇跡は起こりません(マルコ6章5節)。そこで「どろを盲人の目に塗」られました。その上で「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」(9章7節)との御言葉をもって盲人の為すべきことを命じられました。
「そこで彼は行って洗った。」(9章8節)とあります。この一文は11文字の短い表現ですが、多くの事柄が含まれています。盲人と主のおられる神殿境内の近くの道からシロアムの池までは、約1km程離れていて、しかも下り坂で、途中に33段程の階段もありました。ここを降るのは目の見えない盲人にとって大変なことでした(停電等で真っ暗の中、建物の2階から1階へ階段を降りる時以上の困難)。ですから、主の御言葉を本当に信じていなければ、決して出来ないことでした。
この時、盲人は主の御言葉を信じ、聞き従ってシロアムの池の方向に「信仰の一歩」を踏み出しました。そして二歩、三歩と歩み出しました。途中のことは聖書には何も記されていませんが、彼は主イエス様の言われる通りにシロアムの池へ降って「行って(目を)洗」いました(9章7節)。
主イエス様が御言葉により私達を導かれる時は、必ず、導きに従う者に必要な助け(助ける人・助ける物)を備えてくださいます。ですから主は、あなたの「信仰の一歩」を求めておられるのです。この盲人も主の御言葉に従って「信仰の一歩」を踏み出して、歩き続け、シロアムの池に辿り着きました。そしてシロアムの池で目を洗いました。すると主の御言葉の通り「(目が)見えるようになって、帰って行った」のでした。
私達の信仰生涯には、「主の御言葉を信じ信頼して、静かに待つ」こともありますが、主の御言葉を信じて、「信仰の一歩」を踏み出さなければならない時もあります。
この盲人の癒やしの出来事は驚くべきことでした。回りの人々も見違える程に生れつきの盲人であった人は変わりました(9章8節、9節)。主の御言葉を信じて、一歩踏み出して御業に与かる時、人は変わり、人生も変わります。人々は、「なぜ、そうなったのか」と理由を尋ねました。生れつきの盲目であった人は、自分の経験したことを淡々と述べました。その言葉の証しには、誰も冒すことの出来ない力がありました(9章10節~12節)。
その後、彼は、主イエス様と再び出会って、「主よ、信じます」(9章38節)と信仰告白しています。彼は、「肉体の目」だけでなく、もっと大切な「心の目」を開かれ、真の神様を信じで仰ぐ「信仰の目」が開かれたのでした。現代に生きる私達も、主イエス様の御言葉を信じて「信仰の一歩」を踏み出すなら、神様の御業に与かり、神様を見る「心(信仰)の目」が開かれます。
2026年8月30日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎
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