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2026年9月6日礼拝説教要旨

聖書箇所 ヨハネ福音書9章13節~34節         

「神の独り子キリストの徴(しるし)としての盲人の癒し」

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。                          
(マタイ福音書22章37~40節)

「律法の要求が、肉によらず霊(聖霊)によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」                        
(ローマ書8章4節)

「わたしは主であって、あなたをいやすものである」   
(出エジプト記15章26節)

 

前回学んだ「盲人の癒し」(ヨハネ福音書9章1~12節)は驚くべき出来事で、主イエス様が「来るべきメシア、救い主」であることの徴です。旧約聖書には「盲人の癒し」の預言(予告)(詩篇146篇8節、イザヤ書42章7節)しかありませんが、新約聖書の福音書には主イエス様が盲人を癒された記事が何回も出てきます。

また、「メシア(救い主)」を長年待ち望み、主イエス様に洗礼を授けた洗礼者(バプテスマの)ヨハネが自分の弟子達をつかわして、主イエス様に質問して「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(マタイ福音書11章2,3節)と聞いた時、主は「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」(11章4~5節)と答えられ、「来たるべきメシア」の徴の最初に「盲人は見え」と言われました。「盲人の目が開け…見えるようになる」ことは「メシア」である「第一の徴」でした。

この盲人の癒しは当時の人々に大きなインパクトを与えましたが、主が安息日の聖なる掟を守らず「癒し」という「医療行為」をされたので、「罪人だ」と批判されました。パリサイ人は「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」と言いました。一方、パリサイ人以外の人々は「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」と言い、「彼らの間に分争が生じた。」のでした(ヨハネ福音書9章13節~16節)。結局、パリサイ人たちは、目の前の盲目を癒された人物を「生れつきの盲人」とは信じず、本人と両親に尋ねました。しかし、彼らの取組は徒労に終わりました(9章17~23節)。

 パリサイ人たちは、安息日の律法を厳守することを第一と考えていましたが、主イエス様は安息日に盲人を癒されました。以前にも「38年間病気を患っておられる人」を安息日に癒されたことが、この「ヨハネ福音書5章の前半」に記されています。

 何故、主イエス様は、安息日の律法を守られないのか?それは、「律法の文字に従って律法を守る」事では神様は喜ばれないからです。神様が一番に喜ばれるのは、神の独り子である救い主イエス様を信じることです。主イエス様を信じるなら、全ての罪が赦されて、聖霊が私達の内に来てくださいます。私達が聖霊に導かれるなら、自然と律法の要求が満たされます。「ローマ人への手紙8章」には「律法の要求が、肉によらず霊(聖霊)によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(同書8章4節)とあります。

ひとりの律法学者が、主イエス様を試めして「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と質問しました。主は「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。(マタイ福音書22章37~40節)と答えられましたが、「神様を愛する」ことで一番大切なことは、私達に命を与えて総べての必要を満たしてくださる主なる神様と、私達の全ての罪を赦して永遠の命と聖霊を与えて下さる主イエス様を礼拝することです。礼拝を捧げることが「神様を愛する最大の行い」です。

では今日、皆さんは「十戒の第4戒」の「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という律法の文字に従ってこの礼拝堂に来られ、神様に礼拝を捧げておられるのでしょうか? そうではなく、救い主イエス様を信じて全ての罪が赦され、与えられた聖霊に導かれて、今、礼拝を捧げておられます。

律法の文字に従って安息日の礼拝を捧げているのではなく、私達の内におられる聖霊に導かれて、今日このところで主なる神様を礼拝しておられます。ですから、律法を守るのではなく、聖霊に導かれることが大事です。そのことを教えるために、主は安息日に盲人と長患いの病人を癒され、パリサイ人の「根本的な間違い」を指摘しておられるのです。

 更に、続く「8章24節」からは、パリサイ人たちの愚かさと「癒しの証」の尊さが記されています。生れつき盲目のために、何ひとつ学べなかったと思われる無学な元盲人のこの人が、何十年も律法を学んできたパリサイ人たちに説教をしているところです。私達は、主なる神様の奇跡の御業の前には、どんな学問や人生経験も太刀打ち出来ないことを教えられます。

今日は、週報の裏表紙に「活水の群」のために尽力された佐伯理一郎先生が神癒を見られた証を載せています。佐伯先生は熊本医学校を卒業され、上京して東京帝国大学で外科と内科と眼科の指導を受けて後、海軍軍医として5年間アメリカのペンシルべニア大学で学ばれて海軍軍医を退官。京都同志社病院長をされました。その佐伯さんは京都で行われた柘植先生と藤村荘七先生の神癒會で、聖霊の著しいお働きによる「神様の癒し」の御業を目の当たりにされ、佐伯家の一家を挙げて、柘植先生の神癒の運動に心酔され、以後「活水の群」のために尽力されました。

 その佐伯先生の「醫家の見たる神癒」の証を紹介します。「柘植先生が熱海にご静養中、大正15年3月10日聖靈の驚くべきお働きにより突然として全くお癒され遊ばされし旨ご通知あり。3月28日熱海に行き拜診せしに胃部の腫瘍半分に減じおり、くわふるに頸部の腫れさえも同じ程度に減少しおり只だ驚くばかりなり。同年8月下旬、再び熱海に行き拜診するに頸部の腫れは殆んど消え失せ胃部の腫瘍も触れがたき迄にお癒され遊ばされ、驚き恐れて只感謝あるのみ。余も醫業を営みてよりこゝに46年有余おびたゞしき癌腫に接したれども未だかつてこの如き例を知らす。よって種々の書籍を集め調べても似よりたる報告なく更に心易き内科・外科・婦人科等の大家に就きその実験例を聴きたゞすも誰ありて類似の実験なし、余の次男の如きも過る五年間京都帝大、大學院に入り病理學教室に於て専ら癌腫肉腫の如き悪性腫瘍について研究しおるも未だかつてかくの如き驚くべき実験例を見出すこと能はず、眞に驚きおる次第です」と記しておられます。

聖霊による神癒の御業は、2千年前だけでなく現代も行われます。「わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト記15章26節)「我が臨在、汝を癒せり」との御言葉の約束を握り、私達も聖霊による神癒の御業を祈って参りましょう。 

                         2026年9月6日(日) 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎