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2026年9月13日礼拝説教要旨

         坊向久正の生涯

 

「神の言をあなたがたに語った指導者のことを、いつも思い起こしなさい。彼らの最後をみて、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでもかわることはない」。(へブル書137節)

 

はじめに

父、坊向久正は明治32217日に、宝塚の奥の西谷村大原野で、父輝雄、母りんの長男として誕生しました。坊向家は歴代大庄屋でした。その家柄は古く、わたしが持っている過去帳によると、最初の人の戒名は寛文4(1664)とありますので、360年ほど続く家柄です。

村のお寺に釣鐘と釣鐘堂を寄進したため、名字帯刀が許されました。そして名字は京都の知恩院の方丈さんから「坊向」とつけてもらったそうです。これはお寺に仕えるという意味だそうです。帯刀は名刀、関の孫六があり、わたしが子供のころ、これで遊んだことがあります。

父が17歳のころ、お父さんが大阪の証券取引所で株に手を出して大損をして家が傾く様な状態となりました。そんなことで父との折り合いが悪くなり、ある時、家の金を持ち出して九州の別府温泉まで家出をしたこともありました。

ある時、神戸に出てきた父は灘の大きな神社の前で外人がなにか話しているのをみて、田舎育ちで外人なんか見たこともなかったので、その話を聞いていましたら、その人にとても潔いものを感じました。ところが、話し終わった外人さんが父に近づいてきて教会に誘いましたのでついて行き、教会でいろいろ導かれて、その晩に救われました。そして毎晩教会に行き、7日目に洗礼を受けました。その日がなんと大正777日、救われて7日目でした。

それから郷里に帰り、両親の前に手をついて、「これまでの不幸を赦してください」と詫びたそうです。ところが両親はあまりにもの変わりように驚いて、何も言えなかったそうです。しばらくして母が、「お前のような者を変えた神様はどんな神様か」と言って、父について教会に行き救われました。また3人の妹たちも救われてクリスチャンになりました。父を救いに導いた方はスエーデンの宣教師で、ペンテコステ派の宣教師でした。

柘植不知人との出会い

その後、不思議な導きで日本伝統隊のソントン先生に出会い、先生の働きのお手伝いしておりましたが、先生の紹介で銀行に勤めるようになりました。そして北海道の室蘭支店に転勤になりました。そして室蘭教会に出席していましたが、その教会で東京の柘植不知人のことを聞きましたので、上京して柘植先生に会いにいきました。そこで、感銘を受けた父はそのまま活水学院に入学してしまったのです。

そして、先生から、「天が開かれるまで祈れ」、また「禱告の祈り」を教えていただきましたので、それが父のライフワークとなりました。

神戸での開拓伝道へ

尼崎の「大物伝道館」にいたとき、京都の佐伯理一朗医師から、神戸の川本さんのお婆さんが医者の見放すほどの重い病だから、祈ってほしい」と連絡がありましたので、父は川本家に赴き、お婆さんの枕元で夜通し祈りましたら、翌朝、お婆さんはスッカリ癒されたのです。これは奇跡でした。

それから、その家庭で家庭集会をするようになったら、大勢の人が集まりましたので、父は神戸伝道の志が与えられましたので、尼崎の伝道館は人に譲って、神戸での開拓伝道を開始しました。兵庫区の荒田町に家を借りて「神戸基督伝道館」という看板を掲げました。そして4年ほどたった頃、京都の佐伯先生が川本家の屋敷の一角を教会に捧げてくれないかと話をしてくれ、教会が建ちました。そして建てられたのが現在の教会です。その建築費は6,500円で、全部無名の献金でした。開拓伝道をはじめて4年目にこんな大きな教会が建つなんて奇跡のようです。

そして「活水学院」を開設して、男女十数名の献身者が集って訓練を受けておられました。彼らは各地の牧師、牧師婦人となって、よき働きをなされました。

日米開戦は教会に大きな痛手

昭和16年に勃発した日米開戦は教会に大きな痛手となりました。特別高等警察の監視のもとに礼拝が守られましたが、少しでも国益に反することがあれば特高に召還され詰問されるありさまで、自由に物が言えない時代になりました。また牧師たちが勤労奉仕にかり出され、神戸の牧師も十数人が、九州の三池炭鉱で勤労奉仕をしていました。

父は町内の郡長をしており、空襲になると教会の大屋根に上って監視をしていました。あるとき教会の裏の路地に焼夷弾が落ちたので、大声で知らせ、皆が防空壕から出てきて、それを消して事なきを得ました。

やがて終戦になりましたが、大きな痛手が残りました。わたしの姉が7月、終戦をまたずに病気のために亡くなりました。空襲の合間に自分で作った柩に納めて火葬場に運んだそうです。両親はどんなに辛かったことでしょう。

また、母も終戦の翌年、姉の召天から1年も経たないで召されました。わたしも同じ頃に病気をしましたが、米軍の軍医がきて、当時日本にないペニシリンを打って助けてくれました。

戦後の山手教会は

山手教会は空襲の被害からまもられましたので、すぐに教会の門戸を開けましたが、どの家庭も大変な状態で、集まる者も少なく大変でした。そこで父は焼け跡を開墾して野菜を作りました。作物はよくできて、バスケットボールほどのカボチャがごろごろできるのです。

ところがある日、突然「もう百姓はやめた。こんなことしていたら伝道ができない」とぷっつりとやめてしまいました。それから夜になると信者さんの家庭を回って家庭集会を始めたのです。信者さんが出てこられないので、こちらから出向くという作戦でした。そのため子供たちはいつも寂しくしていました。

話を先にすすめます

1969年にわたしは神戸に帰ってきました。東京の神学校に行って3年間、また東京の教会で1年間。そして長野の教会で8年間。都合12年ぶりに神戸に帰ってきました。それは神戸の役員さんたちが、「お父さんも恒例になったから帰ってください」との要請があったからです。わたしは36歳でした。それから2人の牧師による複数牧会となりました。

その教会は集会が多く、日曜日は聖日礼拝、晩は伝道集会、月曜日は休みで、火曜日は家庭集会、水曜日は午前の祈禱会、夜も祈禱会。木曜日は家庭集会、金曜日も家庭集会、土曜日は中学生の集会と、ほとんど毎日集会の御用をしておりました。そして父は日曜日と金曜日の家庭集会を担当し、その他はみんなわたしが担当しました。

そのために教会は盛んになり、礼拝出席者は130名から140名になりました。また新年礼拝は200名のときもありました。

そして1978(昭和53)に、創立50年の年を迎えました。そして創立記念の式典が11月3日に行われ、全国の活水の群の教職と信徒も集まってくださり、記念写真をとりましたが、500名近くありました。山手教会のいちばん盛んなときでした。

創立50年の記念の後

山手教会は歴史的経過で日本基督教団に入っていますが、バックストン師の日本伝道隊で導かれた柘植不知人先生の信仰の流れを継承する活水の群の教会です。

創立50年を経過したところで、山手教会は著しく変わりました。それは市内の福音派の教会と教職との交流と協力です。神戸には「宣教協力会」という交わりがあり、市内の教職が神戸のリバイバルのために祈る会です。それに積極的に参加、協力するようになりましたので、父も大変喜び、教会を開放して協力してくれました。そして、山手教会を会場にして様々な行事が行われるようになりました。

その第一は、ケズィック神戸大会の会場として用いられ、イギリスのキース・ウエストン博士をお迎えして集会をしたところ、市内の教会から330名が集まりました。それを皮切りに、毎年、山手教会を会場にして開かれて今日に至っています。

また、インドの宣教師ケン・ニャナカン師を招いて、山手教会を会場にして国際大会が開かれました。また、レイトン・ホード神戸国際大会を大倉山の文化ホールで開いたときは、わたしが実行委員長として、その任務を果たしました。

また、市内の2,3の教会でハワイの放送局で福音放送を30年間続けてきました。

そのために山手教会の有志の方々に献金をお願いして続けていただきました。その他、いろいろありますが、これらのことが円滑に行われたのは、父の協力と祈りの支援があったことは言うまでもありません。

父の最後は

父の生涯は禱告の人でした。いつも講壇の前で教会員のために祈り続けていました。そして、その最後は厳かな最後でした。いつものようにベッドの上で、禱告名簿を開いて祈っていましたら、声が聞こえなくなったので行って見ると召されていたのです。祈りながら召されたのです。実に厳かな最後でした。

父の生涯を支えたみ言葉は「祈りてうまざるべし」(すべての聖徒のために祈りつづけなさい)エペソ書6章16節。

私も父の祈りを継承して、毎朝8時から書斎に籠って教会員の名前をひとりひとり呼んで、一日の祝福を祈っています。しかも有り難いことに名簿を見ないで祈れるということです。まだ頭がシッカリしているということです。余計なことを書いてすみません。

皆様の上に神様の祝福がありますようにお祈りいたします。アーメン。

坊向輝國