本文へスキップ
2011.1.1
                                                      戻る

  

その偉大なる力によって

 

『最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強く
なりなさい』。       (エペソ人への手紙610節)

 

このみ言葉が2011年(平成23年)の山手教会に与えられた年間
標語です。このみ言葉を旗印にして一年間の信仰生活を励んでい
きましょう。『最後に言う』とありますが、これは大切なことを
強調するときに使われる言葉で、その後に『その偉大な力によっ
て、強くなりなさい』とありますが、これは人間の力、頑張りに
よるものではありません。人間の力には限界があり、すぐに挫折
をしてしまいます。ですから、その前に『主にあって』とありま
す。これは「御霊の力によって」という意味なのです。


では、どうすれば御霊の力が与えられるのでしょうか。ルカ福
音書1113節に『天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下
さらないことがあろうか』とあります。聖霊はものぐさ太郎のよ
うに口を開けて待っていても与えられるものではなく、祈り求め
るところに与えられるものなのです。

 

使徒行伝2章に聖霊降臨の話がありますが、これは1章にあり
ますように、イエスの昇天後に120名の者たちがエルサレムで
祈り求めたときに、10日目に彼らの上に聖霊がくだったのです。
ですから皆様も祈り求めてください。そうすれば約束の御霊が与
えられ、力強い人生を送ることができるのです。

 

では、聖霊はわたしたちにどのような力を与えてくださるので
しょうか。ガラテヤ人への手紙5章22節に『御霊の実は、愛、
喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制』とあります。
つまり御霊に満たされたらこのような力が与えられるのです。

 

そこでまず、『御霊の実は愛』とありますが、御霊の力に満たさ
れたらどんな人でも愛の人になるのです。この愛は自分の好きな人
を愛するといったエロス的な愛ではなく、アガペーの愛、つまり神
の愛なのです。この神の愛に満たされたら、全ての人を分け隔てな
く愛することができるだけでなく、敵をも赦し愛することのできる
愛なのです。『友のために命を捨てる、これよりも大いなる愛はな
い』とありますが、この大きな愛は御霊によって与えられる愛なの
です。

 

次に、『御霊の実は喜び』とありますが、御霊に満たされたら喜
びに満ちあふれる人になるのです。不平不満の多いこの世の中で、
もし御霊によって喜びが満たされたら、こんな幸せなことはありま
せん。また箴言14章13節に『喜びのはてに憂いがある』 とあ
りますが、これはこの世の人たちの喜びを言っているのです。確か
に、なにかいいことがあれば喜びますが、その喜びはしばらくの間
で、なにか心配事でもあればその喜びも消えてしまいます。

 

でも神が御霊によってわたしたちに与えられる喜びは、いつまで
も泉のようにこんこんとわき溢れる喜びです。柘植不知人先生が大
正4年(1915年)の10月10日に大阪の梅田駅で聖霊体験を
されましたが、そのとき先生の心に喜びが溢れて「どんなに抑えよ
うとしてもおさえきれなかった」と言っておられます。どうぞ皆様
も聖霊に満たされて喜び溢れる日々を送ってください。『常に喜べ、
絶えず祈れ、すべてのことを感謝すべし』とありますが、御霊に満
たされてはじめて心から喜べる人となるのです。

 

次に、『御霊の実は平和』とありますが、御霊に満たされて人は
はじめて人々と平和に過ごすことができるのです。だれもが平和を
願います。しかしなかなか人々と仲良くすることはできないのは、
御霊に満たされないからです。マタイ福音書5章9節に、『平和を
つくりだす人たちはさいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであ
ろう』とあります。

 

次に、『御霊の実は寛容』とあります。この寛容とは寛大な心で
人を赦し受け入れることです。そして広辞苑をみると「キリスト教
の重大な徳目」とあります。つまり御霊に満たされたクリスチャン
であって初めて人々を赦し寛容に受け入れることができるのです。
ピリピ書4章5節に『寛容をみんなの人に示しなさい』とあります。
このクリスチャンの寛容な態度が人々に好意を与えて、クリスチャン
の証しとなるのです。

 

次に、『御霊の実は慈愛』とあります。慈愛とは「慈しみ愛する
ことである」とあります。この弱い者を慈しみ愛することができる
のも御霊の力です。この頃は「幼児虐待」「嬰児殺し」のニュース
がよく報じられますが、自分の子を虐待するなんて人間のする行為
とは信じられません。

 

次に、御霊の実は善意』とあります。これは「他人のためを思う
心」と広辞苑は説明していますが、今日の人々はあまりにも自己中
心的で自分さえよければ、他人がどんなに苦しんでいても、辛い思
いをしていても構わないといった人が多い昨今です。聖書にも『自
分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい』とありますが、
少しでも他人のことに気を配ることができたら、世の中はもっとよ
くなるのではないでしょうか。

 

また「好意的、また他人の行為を好意的に見ようとする心」とあ
りますが、御霊の力に満たされてはじめて人々を好意的にみること
ができるのです。

 

次に、『御霊の実は忠実』とあります。これは陰日向のない態度
です。とかくすると、人が見ているところでは真面目にしますが、
誰も見ていないと不真面目になる人がありますが、これは忠実な人
とは言えません。そしてクリスチャンは神に対して忠実な人なので
す。ルカ福音書16章10節には『小事に忠実な人は、大事にも忠
実である』とあります。この世の人は大事には忠実にしますが、小
事には手を抜いて怠けることがあります。しかし御霊に満たされた
人は小事でも大事でも変わらないで仕える人のことです。ヨハネ黙
示録2章10節に『死に至るまで忠実であれ、そうすれば命の冠を
与えよう』とあります。

 

次に、『御霊の実は柔和』とあります。これは性質や態度がやさ
しくおとなしいことです。そして、このように柔和な人が人々から
愛され、また信頼を得るのです。マタイ福音書5章5節には『柔和
な人たちはさいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう』とあり
ます。また詩篇37篇11節にも『柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁
栄を楽しむことができる』とあります。そしてこの柔和さこそクリ
スチャンの姿なのです。

 

民数記12章3節に『モーセはその人となり柔和なこと、地上の
すべての人にまさっていた』とあります。このようにモーセは柔和
な人でした。ですからあの二百万人に近いイスラエルの民がモーセ
を信じて従ったのです。柔和な人は人々から人望を得ることができ
ます。

 

年をとると、やたらと気が短くなったり、頑固になります。これ
では若い者たちから嫌われます。御霊の力に満たされて柔和な年寄
りとなりたいと願っています。

 

最後に、『御霊の実は自制』とあります。自制とは自分の感情や
欲望をおさえることです。人間には食欲、性欲といった本能があり
ます。これは神が与えたもので決して悪いものではありませんが、
本能のままで行動をしていたのでは獣と変わりません。しかし、
御霊にはその本能を自制する力が与えられるのです。

 

昔、柘植先生のところに大勢の献身者(神学生)が訓練を受けて
いました。その中に献身者ではありませんでしたが、ひとりの中学
生が世話になっていました。そして献身者と一緒に食事をしていた
のですが、食べ盛りの中学生でしたから、遠慮もなくガツガツと何
杯もおかわりをして食べていました。ところがある日、それを見て
いた柘植不知人先生が、「幸ちゃん、ぼつぼつ聖霊様がなにか仰ら
ないか」と言われた、という話を聞いたことがあります。

 

本能のままに生きていたのでは獣と変わりません。慎みという
ことも大切なことです。そしてそれを与えるのが聖霊の力なので
す。                   (Jan,1,2011