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2011.1.2
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あなたはどこにいるのか

 

『主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいる
のか」』。               (創世記39節)

 

神に創造されたアダムとイブはエデンの園を管理することを命
じられました。ただ、そのときに「園のどの木からでも心のまま
に取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べ
てはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
と言われたのです。しかし、彼らは蛇に騙されてそれを食べたので、
目が開かれて自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉を腰に
巻いたのです。

 

ところが、彼らは神の命令に背いて禁断の木の実を食べているこ
とを承知で、彼らにもういちど悔い改める機会を与えようとされま
した。そこで園の中にアダムたちに会うために来られたのに、二人
は『主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した』のです。そ
れは神にあわせる顔がなかったからです。

 

ところが『主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこ
にいるのか」』。神は『隠れたことを見ておられる方』ですから、
アダムたちがしたことはすべてご承知です。ですからこの呼びかけ
は悔い改めて神の前に出てくることを願っておられた呼びかけだっ
たのです。そして悔い改めるならばすべてを赦されたのに、彼は悔
い改めるどころか言い訳をして逃れようとしたのです。

 

「わたしと一緒にしてくださったあの女が木から取ってくれたの
で、わたしは食べたのです」と女のせいにして責任転嫁をしたので
す。たとえ女が取って与えても自分が食べなければいいのに…、ま
た女は「蛇がわたしをだましたのです」と、こんどは蛇に責任転嫁
をしようとしたのです。こんな人をよく見ますね、自分の非を認め
ないで、「あの人のせいだ」「あの人が悪いのだ」と…。そのため
に(悔い改めないので)、彼らはエデンの園から追放されたのです。
もし彼らが神から「あなたはどこにいるのか」と言われたときに、
悔い改めて出てきたら追放されることはなかったと思います。なぜ
なら、神は『赦しの神』だからです。

 

同じ創世記4章にカインが弟アベルを殺した人類最初の殺人事件と
して書かれていますが、このときも「弟アベルはどこにいますか」
と神から問いかけられたときにカインは「知りません。わたしが弟
の番人でしょうか」と言って悔い改めませんでした。このように人
間はなかなか自分の非を素直に認められないのです。

 

キリスト教の信仰の出発点は「悔い改め」です。悔い改めて立ち
返る者を神は赦して、新しい出発のチャンスを与えてくださるので
す。「悔い改め」と「悔いる」とは自ずから違います。「悔いる」
とは自分のした失敗を反省することですが、「悔い改め」は悔いる
だけでなく神の方にもういちど方向転換することです。『罪』とは
ギリシャ語でハマルティヤという言葉を使いますが、これは「的外
れ」という意味だそうです。神という正しい的、言い換えれば正し
い関係から逸れてしまった状態なのです。それを正しい状態に戻す
のが悔い改めなのです。

 

ルカ福音書15章の放蕩息子の話の中で、息子は放蕩の限りをつく
した結果どん底にまで落ちぶれ、最後に父のところに帰ってきたと
き、彼は「わたしは天に対しても、あなたにむかっても罪を犯しま
した。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と言って帰
ってきたとき、父はすべてを赦して息子として迎えました。これが
父の愛です。それも息子が悔い改めて帰ってきたからです。

 

また、創世記12章にあるアブラハムがエジプトに逃れて失敗をし、
エジプトを追い出されたとき、彼は『ネゲブから旅路を進めてベテ
ルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。

すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは
主の名を呼んだ』とあります。アブラハムはエジプトを追い出され
たとき、他の方向に向かわないで、不信仰の失敗を犯す前の、つま
り最後に礼拝した祭壇のところにまで戻り、崩れた祭壇を築き直し
て悔い改めの礼拝をしたのです。これがこの後のアブラハムの祝福
の基となったのです。

 

ですからわたしたちも、神に背いて失敗をしたとき、なにも恐れ
ないで神の元に立ち返って悔い改めることが大切です。イザヤ44
22節に『わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから』と
あります。そして神は、いまも『あなたはどこにいるのか』と捜し
求めておられるのです。

 

      讃美歌517

       まよう子らのかえるを 主はいま待ちたもう

      つみもとがもあるまま きたりひれふせ

 

      「かえれや、わが家に 帰れや」

       と主はいま呼びたもう。

 

                   (Jan,02,2011