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2011.1.16
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   エノクの生涯の三つのなぜ

 

『エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラ
を生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。エノク
の年は合わせて三百六十五歳であった。エノクは神とともに歩み、神
が彼をとられたので、いなくなった』。                              
           (創世記521節)

 

 今日はエノクという人の生涯について話をしますが、彼はアダムか
ら数えて七代目に聖書に登場する人物です。彼の生涯は三百六十五年
でしたが、その最後は『いなくなった』とあります。これは行方不明
になったという意味ではなく、へブル書115節には『エノクは死を
見ないように天に移された』とあります。つまり彼は「死を経験しな
いで」天に携挙されたのです。そこでエノクの『三つのなぜ』につい
て話します。

 

 そのなぜの第一は、なぜエノクは死を経験しないで天に携挙された
のでしょうか。それは彼が『三百年、神とともに歩んだ』 とあるよ
うに、彼は神を畏れ敬った潔い生涯だったからです。死はアダムとイ
ブがエデンの園を追放されて以来人類に入ってきた神の刑罰だったの
です。創世記319節に『あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土
に帰る』とあります。この「土に帰る」とは人間の死を意味します。
つまり死は人間の罪に対する刑罰だったのです。

 

 しかし、エノクの生涯はあまりにも潔い生涯だったので、死を経験
することなく天に移されたのです。因みに、彼の前後に登場する人は
みな、その最後に『そして彼は死んだ』という言葉で終わっているの
が印象的です。

 

では次に、なぜエノクの生涯はこんなに潔い生涯だったのでしょう

か。これが第二の『なぜ』です。実はエノクの六十五歳までの生涯
はさほどの生涯ではなかったようです。ところが、この歳から俄然と
して『神と共に歩む生涯』に変わったのです。

 

 それは、その当時に生まれた子供に『メトセラ』という名前をつけ
ているのがヒントになります。この『メトセラ』とは「神の審判」と
いう意味です。つまり、彼はこのときに神から啓示(神からの示し)
を受けたものと推察されます。そしてその当時に生まれた子供に「神
の審判」という意味の『メトセラ』という名前をつけたのです。

 

 人間が神を畏れ敬う経験な生涯を送るのは、「神の審判」を知るこ
とからはじまるのです。ですから、わたしたちは自分の子供たちにも
「終わりには必ず神の審判がある」ということを教えなければなりま
せん。そうすれば、子供たちが神から離れるようなことはありません。
伝道の書12章にも『神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の
本分である』とあります。

 

 第三のなぜは、エノクの生涯が、この前後に書かれている人たちの
年齢に比べて極端に短いのはなぜでしょうか。彼の前後の人の多くは
八百歳代、九百歳代なのにエノクだけが三百六十五歳という短命なの
は、なぜでしょうか。それはエノクに対する天の配剤なのです。もし
エノクが九百歳代まで生きていたら、この後に起こった『ノアの洪水』
に遭遇することになったからです。

 この『ノアの洪水』は人類に対する神の審きだったのです。そして
ノアの夫婦と三人の子供たち夫婦だけが方舟に逃れて命が救われたの
です。そこで神は、このノアの洪水の起こる前にエノクを天に引き上
げられたと考えられます。

 

 テサロニケ前書416節『すなわち、主ご自身が天使のかしらの声
と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。
その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、そ
れから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上
げられ、空中で主に会い、こうしていつも主と共にいるであろう』と
あります。

 

 これはキリストの空中再臨のときの光景です。世の終わりに患難時
代が来ると預言されています。ところが聖徒はその前にキリストが再
臨されて天に携挙されるのです。これは患難時代に聖徒が苦しむこと
のないようにという神の配慮です。

 

 さて、聖書には死を見ないで天に昇ったもうひとりの人物がありま
す。その人は列王記下2章に登場する預言者エリヤです。そこには『火
の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そして、エリヤはつむ
じ風に乗って天にのぼった』とあります。彼もまた聖徒だったので死
を経験しないで天に携挙された人です。

 

 最後は、イエスは十字架にかけられて死んだとあります。なぜイエ
スは死んだのでしょうか。イエスこそ神の子、救い主であるから死ぬ
必要はなかったと思われますが、イエスの死はまた重大な意味がある
のです。つまりイエスの死はわたしたち人類の罪の贖いのための死で
ありました。言い換えれば、イエスがわたしたちの罪を一身に負うて
死んでくださったから、わたしたちの罪の贖いが完成したのです。

 

 しかし、神はイエスをそれに終わらせなさいませんでした。三日目
に墓から復活させなさいました。そしてまた40日目に天にご昇天され
たのです。ですからイエスはご自分の罪のために死んだのではなく、
人類の罪の贖いのための死であったのです。

                            (Jan,16,2011