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2010.2.7
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愛には恐れがない

『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、
かつ恐れる者には愛が全うされていないからである』。

                         (ヨハネ第一書4章18節)

 

 イエスの愛は、いつも弱い者、貧しい者、この世から見捨てられ、相手にされ
ないような人に届いておられるのです。それは、イエスが愛の方だったからです。
 
 マタイ福音書9章10節を見ると『イエスが(取税人の)家で食事の席について
おられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと
共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、
「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人
である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」』
とあります。

 イエスの来臨の目的は義人(と自ら思っている人)を救うためではなく、罪人
を救うためです。ですから自ら彼らのところまでおりて、彼らに近づかれたので
す。これはイエスの愛です。

 また、ルカ福音書19章にはエリコの町の取税人ザーカイにイエスが近づかれた
ところがあります。そしてザーカイがイエスの愛に触れて救われ、変えられたの
です。その話の最後に『わたしが来たのは、失われたものを尋ねだして救うため
である』と結んでいます。

 取税人は当時のユダヤ人社会では罪人と見なされ、人々から疎外されていまし
た。そんな人たちに近づくということは人々から誤解され、悪く見られることで
した。それでも構わずにイエスが彼らに近づかれたのはイエスの愛からでた行動
でした。前掲のみ言葉に『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く』と
ありますが、わたしたちが「人々から悪く思われる」とか「変に思われるのでは
ないか」と恐れるのは愛がない証拠です。もし愛があれば人々の偏見をも恐れず
大胆に行動することができるのです。

 どうぞ皆様も神の愛に満たされて大胆に行動できる人になってください。
ガラテヤ書5章22節に『御霊の実は愛…』とあります。御霊に満たされたらどん
な事でも恐れず大胆に人々を愛することができるのです。

 柘植不知人先生の奥様にこんな話があります。柘植先生はもともと広島の人で
したが、少し知恵遅れの妹さんが行方不明になり、それを探して神戸に来ました。
そして湊川新開地を歩いていたときに、湊川伝道館で開かれていた伝道集会に出
席して、その晩に救われてクリスチャンになりました。40歳のときのことです。

 それからは兵庫区の荒田町の借家から毎日伝道館に通い、熱心に信仰に励んで
おられました。ところがある日、捜索願いを出していた警察から、「行方不明の
妹さんが広島で行き倒れになっていたのが見つかった」と連絡があり、広島まで
行って引き取り神戸の自宅に連れ帰りました。

 借家の2階を妹の寝室にして世話をしたのですが、彼女はすでに結核の第三期
で非常に危険な状態でした。そこで柘植先生の奥様が義妹の横に自分の布団を
敷き、起居を共にしてお世話をしたのです。また、妹さんの食べ残した食事を、
その妹さんの見ている前で綺麗にたべました。それを妹さんはじっと見ていたそ
うです。

 そのことを知った柘植先生は、「そんなことをして病気が感染したらどうする。
御霊の常識をわきまえなさい」ときつく忠告をしましたが、奥様は「そんなこと
を恐れていたら妹の魂を救うことはできません」と言って、そのまま恐れず看病
を続けられたのです。そんなことがあって、これまで多くの人に騙されて人間
不信に陥っていた妹さんも義姉さんだけは心から信頼するように変わってきたの
です。ある時、興奮してヒステリーを起こした妹さんを、柘植先生が押さえつけ
ようとしましたが、男の力でも抑えることのできないような馬鹿力で跳ね返した
というのです。ところが柘植奥様が「もうおやめなさい」と優しく言うと、
「はい」と言っておとなしくなったというのです。これを見て柘植先生は「愛の
力を実感した」と語っておられます。

 また、あるとき柘植奥様が体調を崩して須磨で療養されたとき、その妹さんが
涙を流して一所懸命にお祈りをしているのです。そこで柘植先生は「お前、何を
祈っているのか」と聞いたところが、妹さんは「お義姉さんのためにお祈りしてい
ます。わたしをあんなに愛してくださってわたしが癒されたのだから、同じイエ
スさまは義姉さんを癒してくださると信じて祈っています」と答えたというので
す。柘植奥様の妹さんに対する愛が人間不信に陥っていた妹を変えたのです。そ
して柘植先生は「どんな知恵遅れの人でも真心をもって愛するなら、かならずその
愛を感じるものだ」と『ペンテコステの前後』の中で語っておられます。(59頁)

 柘植奥様は、結核の第三期の人と起居を共にし、寝食を共にして病気が感染する
という恐れがなかったのでしょうか。『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり
除く』とのみ言葉のとおりだったのです。

                                 (Feb.7.2010)