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2010.3.7
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良きサマリヤ人の譬え

「『この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。
彼が言った「その人に慈悲深い行いをした人です」そこでイエスは言わ
れた「あなたも行って同じようにしなさい」』
                     (ルカ福音書1036節)


 

 

 このところはイエスが『良きサマリヤ人』の譬え話をしたところです。
そしてほんとうの良き隣り人は誰かを教えられたのです。この話に入る
発端は、ひとりの律法学者がイエスのところを尋ねてきて、「何をしたら
永遠の生命が受けられるか」と質問をしたのです。勿論、彼は純粋な心で
質問をしたのではなく、『イエスを試みようとして』とありますように、
イエスの律法に対する知識を試みたのです。

 それに対してイエスは『律法にはなんとあるか』と逆に質問をしたとこ
ろ、彼はさすがに律法学者です。『彼は答えて言った、「心をつくし、精
神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。また「自分
を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」とあります』と明確に答える
ことができました。するとイエスは、『あなたの答えは正しい。そのとお
り行いなさい。そうすればいのちが得られる』と言われたのです。

 マタイ福音書22章には『これらの二つのいましめに、律法全体がかか
っている』とあります。つまり、この二つが神がユダヤ人に与えた律法、
つまり『十戒』の全体なのです。

 神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の地から導き出してシナイに導き、
そこで神の宝の民(選民)とし、『十戒』を与えられました。
それが出エジプト記20章にあります。それは
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない』
『刻んだ像を造ってはならない。それに伏して(拝んで)はならない』
『主の名をみだりに(軽々しく)唱えてはならない』
『安息日を覚えて、これを聖とせよ』
『父と母を敬え』
『殺してはならない』
『姦淫してはならない』
『盗んではならない』
『偽証してはならない』
『隣人の家をむさぼってはならない』とあります。

 ところがユダヤ人はこの『十戒』を忠実に守ろうとして様々な戒律を
自分たちでつくり、そのためにがんじがらめの自由のないものとしてし
まったのです。たとえば安息日を守るために、
「安息日には何マイル以上移動してはならない」(旅行してはならない )。
「また鋤や鍬に手をかけてはならない」(労働してはならない)
といったように…。

 この律法学者が答えた二つの愛、つまり『神を愛すること』と『隣り人
を愛すること』は律法の全体を要約したもので、『これが律法の全体だ』
とイエスもマタイ福音書のほうでご自分の口から言っておられます。
 
 さて、イエスから『あなたの答えは正しい。そのとおりに行いなさい。
そうすればいのちが得られる』と言われたとき、この人は『自分の立場
を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とは
だれのことですか」』と尋ねたのです。そこでイエスはこの良きサマリヤ
人の譬え話を語られたのです。

 ひとりの人がエルサレムからエリコに旅をしている道中で強盗に襲わ
れ、身ぐるみはがれたうえに重傷を負わされたのです。助けを求めたく
てもあまり人の通らないところで、途方に暮れていたとき、エルサレム
の宮に勤める祭司が通りかかりましたので助けを期待しました。ところ
が祭司はその重傷人を見るとそのまま逃げるようにして行ってしまいま
した。その次にやってきたのは同じく宮で勤めるレビ人でした。ところ
が彼も助けるどころか、遠くのほうから見ただけで見捨てるようにして
行ってしまったのです。

 三番目に通りかかったのはサマリヤ人でした。それを見たとき重傷人
は観念したのです。なぜならユダヤ人とサマリヤ人とは日頃から仲が
悪く敵対してきた関係だったからです。ところがそのサマリヤ人はその
重傷人を介抱し、自分のロバに乗せて近くの町まで運び、宿屋にお金を
払って世話をしてくれるように頼んだのです。その上、『この人を見て
やってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけにわたしが支払
いますから』と言って立ち去ったのです。

 そしてイエスは『「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り
人となったと思うのか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人
です」。そこでイエスは言われた。「あなたも言って同じようにしなさ
い」』。これは律法学者たちに対する皮肉でした。

 エルサレムの神殿に勤める祭司やレビ人はなぜ助けることができなか
ったのでしょうか。彼らには「こんなところでぐずぐずしていては、ま
だ強盗がそこらにいて自分たちが襲われるかも知れない」という恐れが
あったのか、また「もし死んでいたら、そんな人に触れたら死の汚れが
移り、これから宮で御用ができなくなる」と思ったのか、とにかく愛が
なかったのです。どんなに宮で立派に御用をしていても愛がなければな
んにもなりません。

 最後に『あなたの隣り人を愛せよ』とありますが、この隣り人とは
「自分の周りにいる人、また自分たちと関わりのある人」といった意味
ではなく、「いちばん助けを必要としている人」という意味なのです。
わたしたちも自分の好きな人、関わりのある人だけを愛するのではなく、
いちばん助けを必要としている人に愛の手を差し伸べることが大切なの
です。

 最後に、なぜユダヤ人とサマリヤ人とは仲がわるかったのか、その
ことについて話します。

 西暦前922年のソロモン王の死後、イスラエルの国は二つに分裂をし
ました。一つは『北イスラエル王国』、もう一つは『南ユダ王国』に、
そしてこれを『王国分裂時代』と言います。ところが200年後の722年
に新しく台頭した『アッスリヤ帝国』が『北イスラエル王国』を滅ぼし
てしまったのです。そして北王国の首都サマリヤの人たちをアッスリヤ
に連行したのです。これを『アッスリヤ捕囚』といいます。

 そしてアッスリヤは自国の支配地からアッスリヤ人を連れてきて
サマリヤに住まわせました。これはアッスリヤの占領政策だったのです
が、サマリヤの人たちはそのアッスリヤの人たちと血族結婚をしたので
す。このことは血の純潔を重んじるユダヤ人にはがまんができないこと
で、そのためにサマリヤ人がユダヤ人から軽蔑され、差別されるように
なったのです。これはイエスの時代より、700年も前のことでした。

 それ以来ユダヤ人はサマリヤ人と接することも、近づくことも避ける
ようになったのです。たとえば、北のガリラヤ地方の人たちが南の
エルサレムに向かうためには、その途中にあるサマリヤの町を通れば
近いのに、わざわざその町を迂回したといいます。

 ところが、イエスはヨハネ福音書4章にあるように、サマリヤの町に
お入りになり、スカルの井戸辺で水を汲みにきたサマリヤの女性に出会い
水を求めておられる姿があります。つまりイエスは愛の人ですから偏見
も差別もなかったからです。

 このサマリヤ人はいまも自分たちだけの地域社会を守り、あまり
ユダヤ人とは交際も結婚もしないようです。そしてイスラエル政府は
貧しい彼らのために経済援助をしていると聞きました。

 この『良きサマリヤ人』の譬え話は、当時の宗教家たちに対する痛烈
な批判と皮肉が込められているのです。

                       (Mar 07.2010)