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2011.4.10
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  アブラハムの従順と信仰

 

『そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を
殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラ
ハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおりま
す」。み使いが言った、「わらべを手にかけてはならない。ま
た何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子を
さえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者
であることをわたしは今知った」』。    
                 (創世記22章10〜12節)

 

このところはアブラハムが神の命に従ってイサクを燔祭とし
て捧げようとしたところです。そしてこのことを通して彼の神
を畏れる信仰が示されたところです。

イサクはアブラハムが百歳にしてようやく与えられた子供で
す。そしてその子がいちばん可愛いさかりに、神がその子をモ
リヤの山で燔祭として捧げようと命じられたのです。『燔祭』
とは神に対する全き献身を表すもので、動物を祭壇に供えて殺
して火に焼き、その煙を天にのぼらせる供犠です。ところが神
はその子イサクを燔祭として捧げよと命じられたのです。長い
あいだ待ち望んだ子を捧げよとは、こんな理不尽なことはあり
ません。そしてこれは『アブラハムを試みて』とあるように、
彼の信仰を試されたのです。
          


ところが『アブラハムは朝はやく起き』とあるように、翌日
の早朝に行動を起こしたのです。こんな理不尽な事にもアブラ
ハムが従えたのは、彼が心底から神を畏れる者であったからで
す。普通なら、たとえ神の命に従ったとしても、肉親の情に負
け一日延ばしするものです。でもそんなことをすれば悪魔に乗
ぜられて従えなくなります。

 

そしてイサクを連れてモリヤの山に行きました。このモリヤ
の山とは今日のエルサレムのあるところだと言われています。
そしてそのイサクを捧げようとした岩のところに後に神殿が建
てられたのです。いまはその場所にイスラム教の黄金のドーム
が建てられていますが、その地下にその大きな岩があります。

 

さて、そのモリヤの山でイサクの手足を縛って、その子を殺
して燔祭として捧げようとしたとき、神から声があり、『わら
べを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あ
なたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまな
いので、あなたが神を畏れる者であることをわたしは今知った』
とアブラハムの従順さが認められたのです。

 

そして『アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶ
に掛けている一頭の雄羊がいた』ので、それを捕まえてイサクの
代わりに燔祭としてささげました。そしてアブラハムは『主の山
に備えあり(アドナイ・エレ)』と言って神を崇めて感謝をしま
した。これはアブラハムが神を畏れて従ったために、神がなして
くださった救いの道だったのです。コリント前書1013節に
『あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真
実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせること
はないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のが
れる道も備えて下さるのである』とあります。アブラハムの信仰
のゆえに神は雄羊を備えて助けてくださったのです。

 

次に、アブラハムが神からの命を聞いたとき、彼は『朝早く起
きて』従ったことについて話します。もし子ども可愛さに一日延
ばしをしていたら、サタンに乗ぜられ素直に従えなくなったかも
しれません。やはり直ぐに従うことが大切です。そこに恵みがあ
るのです。

 

わたしのまだ若いころのことです。「活水誌」の編集のために
徹夜で仕事をしていました。そこへ教会員から電話があり、「い
ま医師に話を聞きましたら、Hさんは今晩がやまだということで
した」と教えてくれました。そこで「直ぐに駆けつけます」と返
事をして、もう少しで編集が終わるので、それを仕上げたら駆け
つけようと仕事をはじめましたが、どうも気持ちが落ち着かず仕
事になりません。そこでペンを置いて車で駆けつけました。

 

国道を20キロほど走って、その人の家の前に車を停めて奥に入
りましたら、病人の回りには家族と親戚の人たちが布団を取り囲
むようにして臨終のときを見守っていました。そこで病人の枕元
に座りましたが、意識は全くなく、脳溢血の症状の大きなイビキ
をゴーゴーとかいているのです。そこで病人の耳元で「教会から
来ましたよ、分かりますか」と声を掛けると、少し頭を動かしま
したので、わかってくれたと感じたので、「今からお祈りをしま
すからね」と言って、病人の頭に手を置いて祈りました。

 

このときの祈りは、「どうぞこの人をいまあなたのみ国に平安
のうちに召してください」という祈りでした。そして最後に「今
日われ汝と共にパラダイス(天国)にあるべし。アーメン。」と
祈り終えたと同時に息がぴたりと止まってしまったのです。わた
しは一瞬「この先生、この病人を祈り殺した」と言われないかと
恐れました。ところがしばらくの沈黙の後、ひとりの親戚の人が、
「この人は教会の先生が来られるのを待っていたのだなぁ」と言
われてほっとしました。そのときに考えました。電話を受けたと
きに飛び出して来てよかった。編集を終えてから駆けつけたので
は間に合っていなかったかもしれないと。

 

またこんな話があります。それは使徒行伝826節『しかし、
主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサ
レムからガザへ下る道に出なさい」。そこで彼は立って出かけた』 


 これはピリポにくだされた神の命令でした。彼はサマリヤの地
で伝道をして多くの人々が救われたのです。そんな時にピリポに
神からの声があったのです。それは「これからガザに行く街道に
行け」というお声でした。考えようによれば、彼はいまサマリヤ
でいい働きをしているから、このまま伝道を続けたら素晴らしい
栄光を拝することは必然です。ところが神は「ガザに行け」と命
じられたのです。そして『そのガザは、今は荒れ果てている』と
いうような地です。でも、神に用いられるような人は神に対して
忠信です。彼はその声に従いました。そして驚くほどの栄光とな
ったのです。

 

 ガザ街道で、エルサレムで礼拝をして、馬車で国に帰ろうとし
ているエチオピアの王に仕える宦官に出会ったのです。そして、
その人に伝道をしたので救われ、洗礼を受けてエジプトに帰りま
した。そして国で伝道をしましたので多くの人が信仰に導かれて、
この国が後にキリスト教国となったといわれています。これも彼
が直ぐに従ったからです。相手も馬車で移動をしていましたから
もしぐずぐずしておれば道中で出会うことができなかったと推察
されます。まさしくグッドタイミングだったのです。わたしたち
も、神のみ声を聞いたときはぐずぐずしないで、直ぐに従う者で
ありたいものです。

                     (Apr,10.2011