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2010.4.11
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トマスに現れたイエスの愛

 

 『八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも

一緒にいた。イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言

われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、

わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみ

なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマス

はイエスに答えて言った。「わが主よ、わが神よ」イエスは彼に言わ

れた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は

さいわいである」』      (ヨハネ福音書2029)

 

 

 このところは、イエスがトマスに対して復活したご自身の姿を

示されたところです。つまりイエスの愛が現されたところです。

 イエスの復活は弟子たちの大きな喜びとなりました。イエスは

十字架におかかりになる前に、弟子たちに決別の説教をしておら

れます。(14章〜16)。その中に、『よくよくあなたがたに言っ

ておく、あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。

あなたがたは憂いているが、その憂いは喜びに変わる』(1620)

と言われました。

 

 つまり、これはイエスが復活されたときのことを言われたので

す。この『あなたがたが泣き悲しむ』とは、イエスが十字架にか

かられたときのことです。このとき弟子たちは悲観して悲しみま

した。でも十字架にかけたユダヤ人たちは喜んだのです。しかし

イエスが復活されたとき、弟子たちの憂いは喜びに変わったので

す。

 

 そして『弟子たちは主を見て喜んだ』のです。そのイエスのお

言葉のとおりになりました。また、ルカ福音書24章にはエマオ

途上でイエスが弟子たちに現れたときのことが書いてあります。

彼らはイエスが十字架にかかって死なれたので、失望落胆して

故郷に帰ろうとしている道中でした。そこにイエスが現れて彼ら

と道中をご一緒されたのですが、彼らは悲しみのために目がくら

んでその人がイエスであることに気がつきませんでした。

 

 ところが宿屋で食事をしているとき、パンを裂かれたあり様を

見て、最後の晩餐のときのイエスの姿を思い出して、彼らの目が

開かれたのです。そしてそこにおられる方が復活されたイエスで

あることを知りました。そのとき彼らは『わが心、内に燃えたで

はないか』と言ってエルサレムに引き返したのです。

 

 このようにイエスの復活は弟子たちに大きな喜びとなりました。

そして彼らだけではなく、今日もイエスを信ずる者たちに大きな

喜びと希望を与えたのです。

 

 さて、トマスは他の弟子たちとは違い、単純に信ずることがで

きない理知的な人として描かれています。そして単純に信じた

弟子たちを見下げたようなところがありました。しかし、イエス

からご自身の手と脇腹の傷跡を見せられたとき、彼はイエスの

復活を信じたのです。

 

 しかしイエスは『あなたはわたしの傷を見たので信じたのか。

見ないで信ずる者はさいわいである』と言われました。信仰は

実証されたから信ずるというものではありません。神のお言葉を

素直に信ずることが大切なのです。理解できたから信ずるという

のは理知で信仰ではありません。

 

 しかし、世の中には「素直に信ずる人」を単純だと馬鹿にする

傾向がありますが、詩篇531節には『愚かな者は、心のうちに

神はない」と言う』とあります。この「愚かな者」とは罪人とい

う意味なのです。つまり単純に、また素直に信じることができない

のは頭がいいから、理知的だからではなく、罪人だから信ずること

ができないのだと言っているのです。

 

 よく、「神なんかいない。いたらここに出してみよ、そうしたら信じ

てやる」と言う人がいます。しかしそんな人は、神が一緒にいてもわ

からないのです。それは罪人だからです。また、神が罪人と一緒にお

られるはずはありません。

 

 ヤコブ書121節に『み言葉を素直に受け入れなさい。み言葉に

はあなたがたの魂を救う力がある』とあります。神のみ言葉を素直に

(単純に)信ずる人が恵まれるのです。

 

 わたしの神学生の頃(今から50年以上も前)にある神学者が、

『非神話化』という学説を提唱しました。その主張は「聖書の中には

神話化されたものがたくさんある。それを取り除けばほんとうのキリ

スト教になる」という主張で、聖書の中から神話化されたとおもわれ

るもの、特に奇蹟などを取り除こうとしました。

しかし、この『非神話化』の主張は間もなく廃れてしまいました。

 

 それはなぜでしょうか。つまり、そんなものを除いていけば彼ら

の信仰に力がなくなってしまったのです。信仰とは自分の智恵の

知識では理解できないことでも、神のお言葉として信じ受け入れる

ことです。ヘブル書111節に『信仰とは、望んでいる事がらを

確信し、まだ見ていない事実を確認することである』とあります。

 

 

                          (Apr.11.2010)