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2011.4.17
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柔和と謙遜の入場

 

『そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いて
きて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお
乗りになった。すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、ま
た他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、
前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の
御名によってきたる者に祝福あれ。今きたる、われらの父ダビデの
国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。』

    (マルコ福音書119節)

 

 受難週の最初の日(日曜日)にイエスはエルサレムに入場されま
した。このとき群衆は棕櫚の葉を手にして『ホサナ、ホサナ』と叫
んでイエスを歓迎しましたので『棕櫚の聖日』といいます。しかし、
このエルサレム入場は群衆が叫んだような決して華やかなものでは
なく、イエスの受難の始まりとなりました。 

 

 そして彼らが叫んだ『ホサナ』とは、「今わたしたちを救ってく
ださい」という意味で、イエスをメシヤ(救世主)として迎えたの
です。しかし、人の心は変わりやすく数日後には「イエスを十字架
にかけよ」と叫ぶ群衆となったのです。

 

 またイエスのエルサレム入場のときにロバの子の背に乗って入場
をしたことは、イエスの柔和な姿が現われていますが、これはまた
旧約聖書の預言の成就となったのです。ゼカリヤ書99節に『シ
オンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あ
なたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔
和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る』
とあります。これはメシヤが出現するときの預言ですが、イエスは
その預言のとおりにろばの子の背に乗って入場されたのです。そし
てこれがイエスの柔和でありました。

 

 当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありましたので、エル
サレムにもローマ軍団が駐屯していました。そして彼らはエルサレ
ムに入場をするときは、背の高い軍馬に乗り威風堂々、ユダヤ人た
ちを塀下(見下す)ようにして入場をしましたのでユダヤ人たちか
ら反感をもたれていました。ところがイエスはロバの背に乗り、群
衆と同じ目線に立たれて入場をされたのです。これこそイエスの謙
遜、そして柔和な姿でした。

 

 大学時代に乗馬部の友人に馬に乗せてもらいました。わたしにと
っては馬に乗るのははじめての経験でしたが、その高さはまるで二
階のひさしぐらいあり、なにか優越感を覚えるほどでした。しかし、
その優越感も束の間で友人が馬の尻をむちでパチンと叩くと、いき
なり走り出したのです。まだ手綱の使い方も知らず、とにかく振り
落されないように必死で鞍にしがみついていました。ところが馬も
上に乗っているのが素人とわかったのか、走るのを止めて草を食い
だしたのです。そこで手綱を引いてなんとかしようとしましたが、
もう馬はびくともいうことを聞きません。まったく馬に馬鹿にされ
てしまいました。しかし、あの馬の背にのったときの優越感はいま
も忘れません。

 

 話をもとに戻しますが、イエスがろばの背に乗って入場をしたの
は柔和な姿の象徴的な姿だったのですが、その生涯は柔和な方でし
た。それはその出生のはじまりからそれがよく現われています。ル
カ福音書212節に『きょうダビデの町に、あなたがたのために救
主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。あなた
がたは幼子が布にくるまって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見
るであろう。それがあなたがたに与えられるしるしである』とあり
ます。

 

 馬小屋の中で生まれ、飼い葉おけの中に寝かせてある幼子が救い
主だとは、だれも想像することもできません。どんなに貧しくても
こんな事は考えられないことです。それだのに救い主がこんな所に
誕生をしたなんて、いったいどうしたことでしょうか。彼は人類の
救いのために天の子なる神の御位を捨ててこられた救世主です。王
宮とかもっと高いところに誕生をしたとしても何の遜色はないはず
です。

 

 これはイエスの謙遜で、どんな低い人にも貧しい人にも届くため
だったのです。もし王宮に生まれ育ち、そこで『すべて疲れた人、
重荷を負って苦労をしている人はわたしのところにきなさい。休ま
せてあげよう』と言われても、そんな高いところにはわたしたちは
近づくことはできません。ですから救い主であるイエス自らがいち
ばん低いところに下りて、わたしたちに救いの道を開いてくださっ
たのです。ここにイエスの謙遜があるのです。

 

 ピリピ書26節には『キリストは、神のかたちであられたが、
神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おの
れをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有
様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字
架の死に至るまで従順であられた』とあります。

 

 またコリント前書922節には『弱い人には弱い者になった弱い
人を得るためである』とあります。イエスが人となりこの世に生ま
れてくださったのは、この世の弱い人、貧しい人、低いところで苦
しんでいる人たちを救うために、子なる神が自ら人間の姿をとって
くださったのです。ここにイエスの謙遜があるのです。それだのに
罪人である人間が高ぶっているのは可笑しいことではありませんか。
わたしたちもイエスに倣い、柔和、謙遜な者でありたいものです。

                       (Apr,17,2011