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2010.4.18
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弟子の思い煩いとイエスの愛

 

 『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に

魚がのせてあり、またそこにパンがあった』。

                (ヨハネ福音書219)

 

 これは復活されたイエスがテベリヤ湖(ガリラヤ湖)で弟子たち

と会い、ご愛を示されたところです。そしてこの弟子との再会は

イエスが復活されてから三度目のことでした。このテベリヤ湖は

ガリラヤ湖の別名で、当時イエスラエルを支配していたローマ皇帝

の『テベリウス』の名前に由来したものです。

 

 なぜ、弟子たちがこんな所にきていたのでしょうか。それは

イエスが復活された後、弟子たちに『ガリラヤに行け、そこで

わたしに会えるであろう』(マタイ福音書2810)という

イエスのお言葉に従ったからです。

 

 ところがイエスがまだ来ておられなかったので、弟子たちは

自分たちの明日の糧のことが心配になりました。そこでイエス

に従ったときに捨てたはずの舟と網を持ち出して漁に出たので

す。ところが、その夜はなんの獲物もありませんでした。彼ら

はプロの漁師だった人です。だのにイエスに従っていた三年半

の間に漁のコツを忘れたのでしょうか。そんなことは考えられ

ません。それは神の祝福がなかったからです。

 

 ルカ福音書5章に、漁師たちがイエスに出会って弟子になる

いきさつが書いてありますが、このとき漁師たちはイエスの

『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』というイエス

のお言葉に従いましたから、『おびただしい魚の群れがはいって、

網が破れそうになった』とあります。それは『しかし、お言葉で

すから、網をおろしてみましょう』と、イエスのお言葉に従った

からです。そして、これがイエスの弟子となるきっかけとなった

のです。

 

 ところがこのテベリヤ湖の場合は、弟子たちが思い煩って勝手

に漁に出たのです。やはり主のお言葉に従うことは大切なことで

す。ところがイエスは弟子たちに『子よ』と優しく声をかけられ

ました。そして『舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれ

ば何かとれるであろう』とのイエスのお言葉のとおりに網を下ろ

したところが、それを引き上げることができないほどの魚が多く

とれたのです。あとでその数を数えてみると百五十三匹だったと

あります。昨晩、元プロの漁師が一晩かけても少しもとれなかっ

たのに、どうしてこんなにたくさんの魚がとれたのでしょうか。

 

 それは、イエスのお言葉に従ったからです。

 

 ここでイエスは『舟の右のほうに』と言っておられますが、

普段は舟の左舷に網を下ろしたり、釣り糸を下ろすものだそう

ですが、イエスは『舟の右に』と言われました。それでも彼ら

が、漁には素人のイエスのお言葉に素直に従えたのは、彼らは

昨晩のことで挫折をしていたからです。人間は挫折をしたら人

の言うことを素直に聞き従うことができるものです。ですから

「挫折はある意味で恵み」なのです。

 

 さて、弟子たちが陸に上ってみると、『炭火がおこしてあって、

その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった』のを見まし

た。この魚は弟子たちがとってきたものではありません。イエス

が用意しておられた魚だったのです。これをみた弟子たちは自分

たちの不信仰を反省したに違いありません。『主の山に備えあり』

(アドナイ・エレ)(創世記2214)です。神はいまもわたした

ちの必要をよくご存じで備えていてくださるかたです。

 

 ある人が、この教会にはじめて来たとき、講壇から「神様は

味噌も醤油もみな備えていてくださる」という話を聞き、「ここ

は面白いことを言う教会だ」と思ったと話していました。

 

 わたしたちもいろんなかたちで思い煩うものです。ところが、

ペテロ前書57節に『神はあなたがたを顧みていて下さる

のであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神に委ねるが

よい』とあります。思い煩いは不信仰の人に起こる現象です。

そのように思い煩いを神に委ねる人はしあわせに生きることが

できるのです。

 

 マタイ福音書631節以下に『だから、何を食べようか、

何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらう

な。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものであ

る。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあ

なたがたに必要であることをご存じである。

(だから)まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、

これらのものはすべて添えて与えられる』とあります。

 

 神はわたしたちの必要をみなご存じで備えていてくださる

かたですから思い煩いを捨てて、神を信じて従うことが大切

です。思い煩いは神を信じない異邦人の態度なのです。ここ

に『神の国と神の義』とありますが、神の義とは「神との正

しい関係」という意味です。つまり、わたしたちがいつも神

と正しい関係にあるなら、神はわたしたちの必要をみな備え

ていてくださるのです。

 

 ある年金生活者が、生活費の不安から不信仰の呟きを起こ

しました。ところが外を散歩しているときに財布を拾い近く

の交番に届けました。その後、散歩を続けて自宅に帰ると、

財布を落とした人が来て、お礼に一万円札を置いていったの

です。そのときその人は感じたのです。神はわたしたちが

必要なものはいつでも備えていてくださることを。

 

                       (Apr,18,2010)