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2010.4.25
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わたしの羊を養いなさい

 

 『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを

愛するか 」。 ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言

われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべ

てをご存じです。 わたしがあなたを愛していることは、おわかり

になっています」。 イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いな

さい」』。                     (ヨハネ福音書2117節)

 

 

 このところは、ペテロに対してイエスの愛が示されたところです。

前回はテベリヤ湖でイエスが用意してくださった魚とパンを食べ

ましたが、その後、イエスはペテロに対して『わたしを愛するか』

と三度まで言われたのです。これを聞いてペテロは心を痛めたと

あります。

 

 それはイエスとの最後の対話のことを思い出したからです。

ルカ福音書2233節以下を見ると、『シモンが言った、「主よ、

わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く

覚悟です」。するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言

っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知ら

ないと言うだろう」』とあります。

 

 そしてイエスが捕えられて大祭司カヤパの庭に連行されたとき、

ペテロも後について潜入をしたのです。ところがそこで町の人た

ちからイエスとの関係者であることを指摘されたとき、彼は三度

もその関係を否定したのです。そして三度目に否定したとき、イ

エスが言われたとおりに鶏が鳴いたのです。そのときペテロは、

『きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう。

と言われた主のお言葉を思い出し、そして外に出て泣いた』とあ

ります。これは主を裏切ったペテロの悲しい経験でした。

 

 ところが、ここでイエスがペテロに対して三度まで、「わたしを

愛するか 」と言われたとき、イエスを否定した自分の不甲斐なさ

を思い出して心を痛めたのです。

 

 ここでイエスがペテロに対して三度まで言われたのは、決して

ペテロを咎め立てしたのではなく、イエスのペテロに対する愛の

言葉だったのです。そしてペテロはこのイエスの言葉に立ち直る

ことができたのです。そして、この後のペテロはイエスのために

命懸けで働き、 最後は西暦64年のローマ皇帝ネロのキリスト教

徒の大迫害のときに殉教をしています。

 

 彼は十字架にかけられて殺されましたが、「 わたしはイエスを

裏切ったものですから、イエスと同じような十字架にかかるのは

ふさわしくないので、逆さに十字架にかけてくれ」と言って、逆

さ十字架につけられたと言われています。

 

 あんなに自分の身の安全だけを考える弱いペテロが、どうして

立ち直ることができたのでしょうか。それは赦されたからです。

人間は自分の罪を責められてばかりいたのでは決して悔い改める

ことも立ち直ることもできません。赦されてみな本心になって悔

い改めるのです。

 

 『キリスト教は赦しの福音です』。ヨハネ福音書317節に、

『神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、

御子によって、この世が救われるためである 』とあります。

つまりイエスのご来臨の目的は世と世の人を裁くためではなく、

世の人々を救うためだったのです。ですから、イエスは決して

人を裁いてはおられません。いや裁きは神だけの領分なのです。

それだのに人間は平気で人を裁きます。これは自分の領分をわ

きまえていないからです。

 

 ヨハネ福音書811節に姦淫の場で捕えられたひとりの女性

がイエスのところに連れて来られた記事があります。彼らは

「この女性はけしからん。律法を冒して」という正義感からでた

行為かもしれません。そこでイエスは『あなたがたの中で罪のな

い者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』と言われたとき、

だれもこの女に石を投げつけることができる者はありませんでし

た。それは冷静になって考えると、自分もこの女のようではなく

ても罪人であることに気がついたからです。

 

 ところが、イエスが最後に『わたしもあなたを罰しない。お帰

りなさい。今後はもう罪を犯さないように』と諭されたとき、こ

の女性は立ち直ったのです。そしてイエスが十字架にかかられた

とき最後まで従ったのです。それは赦されたからです。

ヤコブ書213節に『あわれみは、さばきにうち勝つ』と

あります。責められても人間は立ち直ることはできませんが、

赦されてはじめて立ち直ることができるのです。

 

 そして神もまた『赦しの神』です。悔い改めて立ち返るな

ら、神は全てを赦して迎えてくださいます。ですから、わた

したちもよく神に背いたり、不信仰を起こして失敗します。

しかしそんなとき、自分の失敗を悔いてばかりいないで、神

のもとに立ち返ることです。イザヤ書4422節に『わたし

に立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから』とあります。

 

 ルカ福音書15章の放蕩息子も、どん底にいきづまったとき

彼はお父さんのところに恥を忍んで立ち返りました。 そうし

たら父はすべてを赦して子として迎えてくれたのです。これ

が神の愛なのです。

                     (Apr,25,2010)