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2011.5.15
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弟子たちの思い煩い


 

『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった』。

(ヨハネ福音書219節)



 

イエスが復活された後、弟子たちはテベリヤ湖に来ました。それ
はイエスから『ガリラヤに行け、わたしに会えるであろう』という
お言葉に従ったからです。(マタイ福音書2810節)ところがイ
エスはまだ来ておられず明日の糧のことを心配した弟子たちは舟を
漕ぎ出して漁をしたのです。彼らはこのガリラヤ湖で漁師をしてお
り、この舟と網はイエスの弟子として従うときに棄てたはずのもの
でした。この棄てたものを再び持ち出すとはどういうことでしょう
か。このへんに弟子たちの不信仰さが現れています。

 

ところが、『その夜はなんの獲物もなかった。夜が明けたころ、
イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだと
は知らなかった』とあります。かつてこの湖でプロの漁師であった
彼らが、イエスの弟子として三年間現場を離れている間に腕がおち
たのでしょうか。そうではなく、彼がイエスのお言葉に従ったので
はなく勝手に漁をしたからです。『わたしから離れては、あなたが
たは何ひとつできないからである』とありますが、神から離れた勝
手な行動は神の祝福を失ったからです。

 

その根拠に、こんど『舟の右のほうに網をおろしてみなさい』と
いうイエスのお言葉に従ったとき、夥しい魚が獲れたのです。そし
て後で数えてみると百五十三匹あったとあります。これはイエスの
お言葉に従ったからです。しかも『舟の右に網を下ろせ』とありま
すが、漁師は漁をするときは舟の左のほう、つまり左舷に網を下ろ
すのが通例です。(なぜ左舷なのかその理由はわたしにはわかりま
せんが、あるいは単なる習慣でしょうか)。とにかくイエスのお言
葉に従ったときに驚くべき収穫を得たのです。

 

その後、弟子たちが陸に上って見ると、そこに既に炭火が起こし
てあり、魚が焼かれパンが用意されていたのです。この魚は弟子た
ちが穫った魚ではなく、イエスが備えていてくださった魚とパンだ
ったのです。つまり彼らのしたことはくたびれもうけだったのです。

 

マタイ福音書6章31節に『何を食べようか、何を飲もうか、ある
いは何を着ようかと言って思いわずらうな。…あなたがたの天の父
は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご
存じである』とあります。つまり、神はわたしたちの一切の必要を
ご存じで、備えてくださるので、わたしたちはなにも心配すること
はないのです。
『主の山に備えあり』です。

 

昔、神戸の地で伝道をしていた宣教師が、日本伝道のために一つ
のプロジェクトを建て、「もしこの計画が神のみ心なら必要の費用
を与えてください」と祈りはじめました。ところがその祈りはなか
なか聞かれませんでいた。でも一か月の目標でしたので、とにかく
聞かれるまで忍耐して祈りました。ところがその最後の日に英国か
ら郵便が届いたのです。そしてその中をみると小切手が入っていま
した。しかも金額はその宣教師が願っていたのと同額でしたので
「神様が祈りを聞いてくださった」と感謝しました。そしてその手
紙が発送された日付は、その宣教師が祈りはじめるよりも前の日付
だったのです。つまり神はその宣教師の全てをご存じで、彼が祈る
前から備えてくださっていたのです。まさしく『主の山には備えあ
り』です。(当時は船便しかありませんでしたので、日本に到着す
るまでには長い日月がかかったのです)。

 

ある青年が山手教会に来るようになった動機が、講壇の上から
『神様の側には味噌も醤油もなんでもある』と語られているのを
聞いて、「この教会は凄い」と感じたということを話していまし
た。そうです、神はわたしたちの全てをご存じで、そのすべての
必要をわたしたちが求める前から備えていてくださる方なのです。
ですから、どんなときにも信仰をもっていけばいいのです。

 

ある年金生活者のお爺さんが、年度末になり、孫たちの結婚、
入学、就職などでお祝い金のために出費が多いときとなり、年金
生活者にとっては頭の痛い季節でした。そこでそのおじいさんは
毎月の限られた年金ではどうしようもないという意味の「手水鉢
からは何も湧いてこない」と言って家をでました。そしていつも
の散歩のコースを歩いていると、JRのガード下で男物の財布を拾
いました。中を見ると一万円札が十数枚ありましたので、最寄り
の交番に届けました。そして家に帰って間もなく男の人が尋ねて
きたのです。その方は財布の持ち主で交番に行ったところが今さ
っき拾い主から届けられたということでした。そこで早速お礼に
来られたのです。

 

「あなたの様な正直な人に拾っていただいてよかったです。こ
れがないと明日の仕入れに困ることでした」、と言って一万円札
を数枚おいて帰られたのです。そのとき、そのお爺さんは、自分
が不信仰を起こして呟いたので、神様が「お前が必要ならいつで
も与えてやる」と教えられたような気がして教会に来られたので
す。そしてお爺さんは、「こんなお金は使えません」と言って教
会に持ってこられ、献金をして帰られました。神はわたしたちが
ほんとうに必要ならば必ず与えてくださる方です。ですから、ど
んなときにも不信仰を起こさずに祈っていくことが大切です。決
して思い煩うことはありません

                    (May,15,2011