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2010.5.23
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ペンテコステの御霊

 

『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、

 激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同が

 すわっていた家いっぱいに響きわたった。・・・すると、一同

 は、聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国

 の言葉で語りだした。』        (使徒行伝21)

 

 イエスの昇天を見送った弟子たちや信徒たちの中の120名の者

たちが、イエスのお言葉に従ってエルサレムに集まり、約束の聖

霊を待ち望む祈り会をしていました。そして10日目の五旬節の

日、つまりペンテコステの日に一同に聖霊がくだったのです。

これが『聖霊降臨』です。

 

 弟子たちが御霊に満たされた結果、彼らの中に著しい変化がお

こりました。そこで今日はこのことについて三つの面からお話を

します。

 

 その一つは、弟子たちが大胆になってイエスの復活の証しを

はじめたことです。それまでは、彼らはイエスを捕らえて十字架

にかけた者たちの手を恐れて、自分たちにまで迫害の手が及ぶの

ではないかと身を潜めていましたが、御霊に満たされた結果、


彼らは大胆にイエスを証しするものとなったのです。
18節に

『ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、

エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、

わたしの証人となるであろう』と語られましたが、このお言葉の

ように彼らが御霊の力に満たされたとき、大胆に主を証しする者

となったのです。

 

 214節以下に、ペテロたちが立ち上がって大胆にイエスの

復活を証ししております。23節『あなたがたは彼を不法の人々の

手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから

解き放って、よみがえらせたのである』と。また32節にも

『このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆

その証人なのである』と語っています。

 

 このイエスの復活を語ることは大変危険なことです。なぜなら

イエスの復活はイエスがメシヤ(救世主)であることの証しだから

です。そこでユダヤ教の指導者たちはイエスが復活された朝、

墓守に金をつかませて「イエスの亡骸は弟子たちが持ち去った」

と言わせたほどでした。これほどイエスの復活に対して

神経質になっていたユダヤ教の指導者に対して、イエスの復活

を語ることは自分の身命に危険の及ぶことでした。でも彼らは

恐れないで大胆に証しすることができたのは、御霊の力に満た

されたからです。わたしたちも御霊の力に満たされたら大胆に

主を証しすることができるのです。まだ「恥ずかしい」といっ

た思いがあるのは、御霊の力に満たされていないからではない

でしょうか。『よろしく御霊に満たされなさい』。

 

 第二に、ペンテコステの日に御霊に満たされた結果、彼らは

愛の人に変えられたとあります。『信者たちはみな一緒にいて、

いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に

応じてみんなの者に分け与えた』(44)とあります。これは愛の

共同生活です。ところがここに集まっていた人たちはいろいろ

な境遇の人たちでしたから、裕福な人も貧しい人もありました。

しかしそんな『損得』を忘れて共同生活ができたのも、彼らが

御霊に満たされたからです。ガラテヤ522節に『御霊の実は

愛、喜び・・・』とありますが、これは御霊に満たされたら、

愛の人になるということです。まだ『損得』の思いがある人、

また出し惜しみをする人はまだ御霊の愛に満たされていない人

です。

 

 昔、有島武郎という小説家がいましたが、彼は「愛は惜しみ

なく奪う」という小説を書いたので有名です。彼の言う愛は

自己中心的な愛だからです。それに対してキルケゴールという

人は『愛は惜しみなく与える』という論文を書きました。この

愛は神の愛、御霊による愛です。そしてイエスも十字架にかか

って人類の罪の贖いのためにご自身の命を与えたのです。

 

 第三に、彼らは『すべての人に好意をもたれていた』(47 )

とあります。そして『その日、仲間に加わったものが三千人ほど』

でした。それは彼らの姿勢が町の人々によい印象を与えたから

です。コリント後書32節に『すべての人に知られ、かつ読ま

れている』とありますが、わたしたちクリスチャンの生きざまは、

いつもこの世の人々に見られているのです。ですから御霊に満た

されて恵まれておればこの世の人々から好意をもたれますが、

それでないとこの世のひとたちはクリスチャンの生きざまに

好意をもたれず、人々は教会に来て救われません。

 

 使徒行伝11章にアンテオケ教会で『初めて、弟子たちが

クリスチャンと呼ばれるようになった。』とありますが、

これはアンテオケの教会の信徒たちが御霊に満たされ恵まれた

人たちだったからです。わたしたちも御霊に満たされ、この世

の人たちから好意を持たれるクリスチャンでありたいものです。

御霊は一度だけ満たされたらいいのではなく、満たされ続ける

ことが大切なのです。

 

※キルケゴールは19世紀のデンマークの思想家で、実存哲学、

弁証法神学に大きな影響を与えた人と言われ、『あれか、これか』

『死に至る病い』といった著作で有名です。

 

                         (May,23,2010)