本文へスキップ
2011.6.12
                                                      戻る

  

       

  

五旬節の日がきて

『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、
激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、すわってい
た家いっぱいに響きわたった。…すると、一同は聖霊に満たされ、
御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した』。
                    (使徒行伝2章1節)

 

 イエスの昇天を見送った弟子たち120名が『エルサレムから離れ
ないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』
とのイエスのお言葉に従って、エルサレムのとある家の二階座敷で
祈り会をしていました。そして10日目に彼らの上に聖霊がくだった
のです。これが『ペンテコステ』です。この日は五旬節の日とあり
ますが、この『五旬節』とは50日目という意味で、イエスが十字架
にかかられた日の翌日、つまりユダヤ人の『過越の日』から数えて
50日目にあたりました。

 

『みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いて
きたような音が天から起ってきて、一同が座っていた家いっぱいに
響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、
ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、
御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした』ので
す。これがペンテコステの光景です。そしてまた『初代エルサレム
教会』の誕生の日となりました。

 

さて、今日は聖霊に満たされた弟子たちがどのように変わったか、
ということを三つの面からお話しいたします。まず第一に、聖霊に
満たされた結果、彼らは『大胆な人に変えられた』のです。214
節以下に、ペテロたちがエルサレムの群衆に対して語った言葉が記
されていますが、その中でも注目をすべきことは、23節に『あなた
がたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエ
スを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエス
が死に支配されているはずはなかったからである』と。また32節に
は『このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆
その証人なのである』とあります。

 

そして314節には、『あなたがたは、この聖なる正しいかたを
拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してし
まった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。
わたしたちは、その事の証人である』。そして、その極めつけは
『だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本
心に立ちかえりなさい』とまで言って、悔い改めを迫っているので
す。実に大胆なことです。

 

イエスが捕えられたとき、自分たちにも迫害の手が迫るのを恐れ
ていた弟子たちが、どうしてこのような大胆なことを言えたのでしょ
うか。それは言うまでもなく聖霊に満たされたからです。そして彼ら
はこの福音のために命をかけて伝道をしたのです。わたしたちも御霊
の力を受けたら、このように大胆にイエスを証しするようになります。
まだ自分がクリスチャンであることを、また教会に行っていることを
知られるのが恥ずかしいといった気持ちがあるならば、御霊の力に満
たされる必要があります。

 

第二に、ペンテコステの結果、弟子たちは愛の人に変えられまし
た。44節『信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、
資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた』
とあります。この教会に集まっていた人たちが共同生活をはじめた
のです。この人たちの中には経済的に豊かな人もあり、またクリス
チャンになったばかりに職を失い、日々の生活にも困難を覚える人
たちもいました。しかし彼らは持ち物を共有し共同生活をしたので
す。たくさん持っているからといって威張る者もなく、また貧しい
からといって卑屈になることもなく共同生活ができたのは、彼らが
御霊に満たされたからです。

 

ガラテヤ書522節に『御霊の実は愛…』とあります。どんな
人でも御霊に満たされたら愛の人に変えられます。まだ「損だ得
だ」と言っている人は愛がないからです。昔、有島武郎という小
説家がありました。彼は「愛は惜しみなく奪う」という題の小説
を書きましたが、それはエゴイズムの愛だからです。それに対し
てキルケゴールという人は「愛は惜しみなく与える」といったの
は有名なことです。そしてこれはイエス・キリストの愛だからで
す。ヨハネの第一の手紙316節に『主は、わたしたちのために
いのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛という
ことを知った』とありますが、イエスは十字架でわたしたちの罪
の贖いを完成させるために命を捨て、尊い血を惜しみなく流して
くださいました。このイエスの十字架こそ人類に対する愛の極致
なのです。わたしたちも御霊に満たされ、愛に満たされ、心から
人々を愛する「愛の人」に変えられたいものです。

 

最後に、『すべての人に好意をもたれていた』とあります。
エルサレム教会の人々が恵まれた愛の共同生活をしているのを見
て、町の人々から好意をもたれたのです。その結果、一日に三千
人ほどの人が仲間に加わった(入信した)とあります。わたした
ちクリスチャンも独善的な信仰であってはなりません。家族の人
たちからも、また町の人たちからも好意を持たれるような信仰で
ありたいものです。アンテオケの教会の信者たちが町の人々から
好意をもたれて『クリスチャン』と呼ばれるようになったとは自
明のことです。(使徒行伝1126節)            

 (Jun,12,2011