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2010.7.04
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散らされた人々は

 

『その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、

使徒以外の者はことごとくユダヤとサマリヤとの地方

に散らされて行った。…さて、散らされて行った人

たちは、御言葉を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。

ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリスト

の福音を宣べはじめた』。 (使徒行伝81,4)

 

 このところはエルサレム教会に対する迫害が起こった

ところです。しかし神はこの迫害を益に変えてくださっ

たのです。前回はステパノを迫害して石で撃ち殺しまし

たが、その余勢をかって、こんどは教会にまで迫害の手

を伸ばしてきたのです。そのためにエルサレム教会の信徒

たちはユダヤとサマリヤの地方に散らされて行きました。

 

 ところが彼らは散らされた地方でみ言葉を宣べ伝えた

ので、各地に福音の種が蒔かれ、教会が誕生したの

です。これはまさしく神の『摂理』でありました。

なぜなら、エルサレムは西暦70年にローマ軍によって

滅ぼされましたので、もしキリスト教の福音が地方に

もたらせられていなかったら、キリスト教会も壊滅的

打撃を受けたに違いありません。

 

 この初代エルサレム教会は、ユダヤ人中心で律法的

色彩が強く、なかなか異邦人(外国人)が入りにくい教会

でしたので、異邦人に福音を伝えることは困難なことで

した。ところがその前に信徒たちがユダヤとサマリヤの

地方に散らされたため、福音の種は地方で守られたの

です。

 

 ローマ書828節に『神は、神を愛する者たち、

すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、

万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは

知っている』とありますが、神は『万事を益に変えて

くださる』かたです。そしてエルサレム教会の迫害事件

も益に変えてくださったのです。ですから、わたしたち

も何か困難なことが起こっても『万事を益に変えて』

くださる神を信じていきたいものです。

 

 使徒行伝198節以下にパウロのエペソでの伝道

のときに起こった事件が書いてあります。『それから、

パウロは会堂にはいって、三ヶ月のあいだ、大胆に

神の国について論じ、また勧めをした。ところが、

ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、

会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は

弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、

ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いた

ので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシャ

人も皆、主の言を聞いた』とあります。

 

 パウロははじめユダヤ教の会堂で集会をしており

ましたが、イエスの復活の福音などの話になると

ユダヤ人たちはその話に反対して、話の妨害をはじめ、

もうそこでは集会ができなくなるまでに追い込んだの

です。そこで仕方なくパウロは会堂を出て導かれた

ところが『ツラノの講堂』だったのです。ここは

哲学の学校でこの地方の優秀な学徒が集まっていた

ところで、ここで集会をするようになると、この地方

の学生が出席するようになり、異邦人(外国人)に

福音を宣べ伝えるきっかけとなりました。

 

 そしてパウロによってキリスト教の信仰に導かれた

優れた学徒が、やがて学校を卒業して自分の郷里に

帰り、彼らが熱心に伝道したので、このガラテヤ地方

にたくさんの教会が誕生したのです。つまり、神は

『逆転の神』でした。一方の道が塞がれても神はどん

なときにも益に変えてくださるのです。ですから、

わたしたちも信仰をもって行きたいものです。

 

 コリント後書48節に『わたしたちは、四方から

患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まら

ない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても

滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている』

とあります。ここに『途方に暮れても行き詰まら

ない』とありますが、文語訳では『せん方つきても

望みを失わず』とあります。神を信ずるものは、

どんな困難な場面に遭遇しても望み、つまり希望を

失わないのです。

 

 コリント前書1313節に『このように、いつまでも

存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。

このうちで最も大いなるものは、愛である』とあります。

どんなときにも希望を持つということは信仰と愛と同様に

大切なことです。ですからどんなときにも希望を失わない

ようにしたいものです。

 

 サムエル記上2324節に、ダビデがマオンの荒野

でサウル王に追われ包囲されたところがあります。

ダビデの手兵はわずか六百人、これではサウル軍の

総攻撃に耐えることはできません。このような絶体絶命

の状態にあったときに国元から、ペリシテ軍の国境侵犯

の報せがもたらされました。そこでサウル王はダビデを

追うことをやめ、兵を引き上げたのでダビデたちは

危機一髪で命が守られたのです。これは神の不思議な

わざでした。神はペリシテ人を動かしてダビデを

救われたのです。ですからわたしたちはどんなとき

にも希望を失ってはなりません。『そして、希望は失望

に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜わって

いる聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれて

いるからである』(ローマ書55節)とあるからです。

そして希望をもっていくときに神は逆転勝利してくだ

さいます。                July,04,2010